【アナザーストーリーズ】戦後最大のヒーロー・力道山 知られざる真実(2)
NHK総合の録画で「アナザーストーリーズ 戦後最大のヒーロー・力道山 知られざる真実」を観ました。
きのうのつづき
そして、運命の1954年2月19日。会場の蔵前国技館には中継スタッフが集められた。
後にプロレス放送を担う京谷康弘はまだ学生だった。
プロレスのプの字も知らないで、君はじゃああっちって、割り振られたのがプロレスだったわけ。「その学生さん、何やってんだ!」。ずっと、放送中も怒られっぱなし。
いつしか新橋駅前広場の街頭テレビの前には身動きできないほどの人だかりができた。すると、2日目の蔵前国技館には…。
百田光雄が振り返る。
初日は超満員ではないんです。だけど、2日目は超満員だった。それはやっぱり街頭テレビの影響なんです。
力道山の狙い通り、プロレス中継の度に街頭テレビの前は黒山の人だかりとなった。すると、力道山もテレビの前の大衆を意識して、どう映されているのかを気にし始めた。
京谷が振り返る。
テレビのカメラ、当時は2台でしょ。「京谷、お前、どっちがどう撮っているんだ?どれ見りゃわかるんだ?お前、教えろよ」って、(力道山が)言うから、「(カメラに)赤いランプがつくでしょ」「あれか」。だから、しょっちゅうテレビのカメラを意識している。
徳光和夫が語る。
力道山がプロレスを短期間で熟知して、これはテレビでいけるぞってことで、テレビを意識してカメラ位置はどこだとか、アナウンスメントはどういう風にするのかとか、自分が相手のレスラーを飛ばしたときはカメラをちょっと引いて、攻め込んだときは寄ってくれ、そういうことまで指示したというんだよね、力道山は。
力道山はテレビ受像機の販売にも一役買った。ミスターゼネラル。テレビ受像機のキャラクターとなり、プロレスとテレビをセットで宣伝していったのだ。
元八欧電機宣伝部の淡野栄治が言う。
あんなインパクトの強いものはなかったです。これは全くの事実です。力道山の場合はプロレスという“破壊力”をテレビの機能性に転化していく。そして広く彼のイメージをゼネラルテレビにものせて送り届けられる。それでテレビの普及率が上がったことは事実ですから。
当初、家庭用テレビの普及は800台余りだったが、この年のうちに5万台を突破した。
徳光和夫が言う。
プロレスが出現したことによって給料が倍々に上がっていく形になる。「プロレスのおかげでいい暮らしができる」って親父は言ってましたからね。
映像の力を信じた力道山がテレビというメディアとともに生み出したプロレス人気だった。
プロレスリングが現在のように大衆の間に入りこんだのはテレビの力が大きかったのを率直に認めなくてはならない。しかし、私に言わせてもらうなら、テレビが普及した一端はプロレスリングによるところも見逃せないのではないかなと…。(「空手チョップ世界を行く」より)
瞬く間に国民的英雄に駆け上がっていった力道山。しかし、その姿を複雑な思いで見つめる男がリングサイドにいた。
つづく