【アナザーストーリーズ】戦後最大のヒーロー・力道山 知られざる真実(1)

NHK総合の録画で「アナザーストーリーズ 戦後最大のヒーロー・力道山 知られざる真実」を観ました。

東京新橋の駅前に集まった2万人の群衆。視線の先にあったのは、放送開始から間もないテレビジョンだ。画面の中ではプロレスラー力道山がアメリカから来た大男を打ち負かしていた。ジャーナリストの田原総一朗は言う。「日本人のアメリカコンプレックスを吹き飛ばしてくれた。あれを見たいからテレビを買った連中は多いんじゃないかな」。

戦う力道山の姿に国民は歓喜した。力道山はまさに戦後日本の輝ける星だった。しかし、彼はある思いを胸に秘め戦っていた。張本勲が言う。「何人だろうと祖国は一つしかありませんから。やっぱり誇りと自信は持っていますよ」。国民的ヒーローの知られざる姿を明らかにしたのがこの番組だ。

かつて日本中が夢中になったヒーローがいた。街頭テレビにおびただしい人々が群がって、彼の活躍に熱狂し興奮した。その名は力道山。1954年2月19日。この日、日本中が注目する中、プロレスの世界戦がおこなわれた。

テレビの登場とともに、スターの座に駆け上がった力道山。この日が日本のデビュー戦だった。対するのは世界タッグチャンピオン、シャープ兄弟。世紀の一戦が始まる。

ボディスラムという技であります。これは体落とし。観客は泣いております。国民の目にも涙。私の目にも涙。

フリーアナウンサー、徳光和夫。あの一戦を日本テレビの社員だった父親とともに観ていた。

こういうものがあるぞって親父に連れられて、中継している現場の蔵前国技館ですね。中継車の中、小さい丸いテレビで見ていたんですね。すごいスポーツだなと思いましたし、アメリカから来た大男を日本人がやっつけるという、こんな快感ないですよ。これが力道山の凄さだと思うんですね。

この番組の第一の視点は「力道山がテレビとタッグを組んだ」。

力道山は始まったばかりのテレビ放送にいち早く目を付けたのだ。1952年、テレビ放送が始まる前の年、力道山はハワイにいた。大相撲を廃業して、当時アメリカで流行していたプロレスリングに賭けるためだ。

力士からプロレスラーへと肉体改造に励む力道山の姿が、まだ入手が困難だったカラーフィルムで残っている。力道山は早くから映像の力に可能性を見出していたのだ。その後、アメリカ本土に渡り、実戦を積む中で、プロレスがテレビ中継で人気を得ていることを目の当たりにする。

力道山の次男、百田光雄は語る。

アメリカに行ったときに、一番それを感じて、これから先はテレビの時代だなと感じたのは父だと思うんですよね。

1953年、日本でもテレビ放送が始まった。しかし、テレビはサラリーマンの初任給の20倍以上。テレビ局はまず、放送を見てもらおうと全国各地に街頭テレビを設置した。

その頃、プロレス団体を立ち上げた力道山は、アメリカにいた。日本初の世界タイトルマッチを開く計画だった。満を持して帰国した力道山。そこに待ち構えていた一人のテレビマンがいた。日本テレビのプロデューサー、戸松信康。

開局以来、赤字続きだった日本テレビの戸松は未知のスポーツ、プロレスに注目していた。戸松を取材したジャーナリストの田原総一朗は言う。

戸松さんが力道山を見てね、これはいけると思った。戸松さんは日本テレビに入って、正力松太郎(当時社長)に可愛がられて、戸松さんが正力さんを口説くわけですよ。(正力さんが)「面白いね」って言うわけね。ここで中継が決まるわけですね。

プロレスをテレビ中継させてほしいと頼む戸松に対し、力道山は願ってもないことだとすぐさま了承した。興行の関係者からはテレビ中継すると客が入らなくなると反対されたが、力道山が説き伏せた。

私はアメリカでテレビ放送を研究したが、プロレスリングこそもっともテレビ向きの大衆スポーツと信じます。ともかく結果を見てください。(力道山自伝「空手チョップ世界を行く」より)

田原総一朗は言う。

力道山は興行師的なセンスもあったと思う。プロレスを日本で普及させたいと思った。プロレスを見に来るお客じゃあ普及しない、やっぱりテレビが中継することで全国的に広がると。

こうして試合1週間前、プロレスのテレビ本放送が決まった。

つづく