立川吉笑「乙の中の甲」“理屈っぽい”が誉め言葉になる。新作落語の旗手は真打計画へ。

表参道ラパンエアロで「立川吉笑ひとり会」を観ました。(2022・06・18)

「理屈っぽい」という形容詞は、普通はネガティブな意味に使われるが、吉笑落語の場合はこの形容詞が誉め言葉になる面白さがある。聴き手が演者の理屈に食らいついていくのが肝要だが、頭脳をフル回転させて必死に食らいついていくと、その喜びは何倍にもなるから嬉しい。

「舌打たず」。舌を打つ、打たない。目を閉じる、閉じない。この組み合わせで4通りの表現ができるから、喜怒哀楽を表すことができるという八五郎の発想がまず面白い。それをマスターしようとする隠居。さらに色々な身体の部位を遣って人間のあらゆる感情表現を一晩中突き詰めていった二人は…。面白い。

「桜の男の子」は吉笑さんの自作ではなく、ナツノカモさんの作品だが、吉笑イズムを大切にした「理屈っぽい」仕上がりになっている。夢の中で起こった出来事がまた夢で、その夢の中で起こった出来事がまた夢で…と永遠に続く、夢のマトリョーシカ。吉笑さんの持ち味である畳みかけるような展開に聴き手は戸惑いながらも、必死に食らいついていくと楽しくなってくる。

この日はもう一つ、ナツノカモ作品が掛けられた。「非明晰夢」(めいせきむにあらず)。吉笑作品に「明晰夢」があるが、これは「桜の男の子」と同様に夢のマトリョーシカ的構造の作品だが、その「理屈っぽさ」を逆手に取ったのが、「非明晰夢」だ。町内の連中が見た夢を書き留めておいて教え合うというものだが、夢というのはぼんやりと覚えているから良いのだが、はっきりとさせてしまうと意外とつまらない。ナツノカモさんは、そんなことが言いたかったのだろうか。この作品も今後高座にかけていくようだから、磨かれて、吉笑ワールドの仲間入りをするに違いない。

トリで演じたのは「乙の中の甲」。これまた、「理屈っぽい」作品である。お金を返してほしい熊五郎と、返さない八五郎。八五郎の理屈は「俺の中のお前はそんなことを言う奴ではない」。確かめてくる。やっぱり、「俺の中の熊はそんな奴じゃなかった」。じゃあと、熊五郎が「自分の中の八五郎」に頼みに行くが、何度試しても、留守。これでは埒があかない。その上、途中で必ず出会う番頭さんが不思議な存在で、この落語にアクセントを与えている。俺の中のお前はそんな奴じゃない!すごい。