【渋谷らくご6月公演】「しゃべっちゃいなよ」の落語界にとっての大きな存在意義を思う

配信で「渋谷らくご6月公演 しゃべっちゃいなよ」を観ました。(2022・06・14)

落語界における、この「しゃべっちゃいなよ」の意義はとても大きいと思う。プロデューサーを務める林家彦いち師匠が、まだ新作を手がけたこともないような若手にも声を掛け、新作に挑戦するきっかけを作っている。これは大変に意味のあることだ。新作ネタ卸し、という高いハードルを越えて、自信を深めた若手噺家は古典を覚えて磨きをかける研鑽とともに、新作を自ら創るという作業に目覚めるわけだ。

古典で身に付けた技術は、新作の創作にも生きているし、逆に新作で発想するアイデアは古典を演じる高座にも生きる。その相乗効果が素晴らしい。落語界の活性化に寄与する会だと思う。そういう試みの場を作ったキュレーターのサンキュータツオさんもすごいし、若手にどんどん参加の声を掛ける彦いち師匠もすごい。そんな「しゃべっちゃいなよ」は本当にすごい。

柳家花ごめ「人の恩返し」

車に轢かれそうになった猫を助けてあげた男のところに、恩返しにやってきた女。このパターンだったら、普通に考えると、猫が化けて恩返しにきたと思うが、そうではなくて、車を運転していた運転手だったという発想に感嘆。やがて、その彼女と男は付き合いはじめ、結婚しようとするまでになるが…。その後の大どんでん返しも、落語っぽくて、なかなかにセンスのある高座だった。

桂伸べえ「広末写真集」

思春期にありがちな男子の胸の内を素直に落語にしていて好感が持てた。広末涼子の写真集を買いたい、だから、本屋にやってきた。誰かに見つからないかな?案の定、同級生に見つかった。恥ずかしい。でも、カモフラージュとして数学の参考書を持っているという作戦が功を奏す。そして、結局は二冊とも買うはめになるが…。広末の方程式とか、心の中の因数分解とか、分かったような分からないようなフレーズも愉しかった。

春風一刀「聖職者」

前半の担任と副担任の、こしあん派つぶあん派、とんかつにソースをかけるか否か、スーパーは成城石井かサミットか、などのこだわりの応酬。後半の浅見君のリコーダーを舐めたのは誰だ?という犯人捜しをするホームルームのシーン。前者が後者の伏線になっているわけでもなく、両者には何の脈略もない。前半は前半で面白かったし、後半は後半で面白かった。多分、違う噺で独立して成立していくんでしょう、と彦いち師匠はおっしゃっていたが、同感だった。

春風亭昇々「真夜中商店街」

最近、本当に郊外へ引っ越したという昇々師匠の経験も交えての創作だろうか。町内会に入るか、入らないか。合唱コンクール、盆踊り、赤い羽根共同募金…年間行事がびっしりの町内会を煩わしいと思うか、近所づきあいは大切と思うか。さらにごみ捨てルールをきちんと守らなければいけないと律義に考えた中村夫婦の心理的困惑。自然を求めて田舎暮らしをはじめた夫婦のありがちな戸惑いをコミカルかつシニカルに描いた。

柳家喬太郎師匠「カマ手本忠臣蔵」

喬太郎師匠は新作ネタ卸しをするのではなく、レジェンド枠での出演。なのに、開口一番、「俺はレジェンドではない!」。単純に同期の「彦さん」に久しぶりに出てみない?と誘われて、出ただけだと弁明。そのあたりのテレが喬太郎師匠らしい。だったら扇辰師匠が出ればいいのに、と言って、「茄子娘」の改作、「ナース娘」を即興で披露するところなど、やはり喬太郎師匠ここにあり!