黒澤明vs.勝新太郎 「影武者」主役降板劇の裏には二人の天才のせめぎ合いがあった(1)

NHK総合の録画で「アナザーストーリーズ 天才激突!黒澤明vs.勝新太郎」を観ました。

天皇と呼ばれる映画監督がいた。黒澤明。自らのイメージをフィルムに焼き付けるには妥協を許さない、完全主義者。その作品群は世界でも高く評価された。

一方、唯一無二の役者がいた。勝新太郎。当たり役は盲目の旅人、座頭市。演技だけでなく、型破りな生き方そのものが愛された、銀幕の大スター。

日本映画界が誇る二人の至宝がついにタッグを組む機会が訪れた。映画のタイトルは「影武者」。撮影前、二人の関係は良好そのものだった。しかし、勝が突如、主役を降板。この降板劇は大きな衝撃を与えた。世界のクロサワと天下の勝新。二人の衝突の裏には何があったのか。それをこの番組は丹念に取材し、構成している。

1979年7月18日。主役の勝新太郎が、黒澤明監督と衝突し、映画「影武者」の現場から去った日。番組はそれを運命の分岐点に、据えた。

2か月前、制作発表を兼ねた宣伝映像が撮影されたとき。カメラの横に陣取るのは帽子にサングラスのいつも黒澤監督。その正面には鎧兜に身を固めた勝新太郎がデンと構えている。大きな期待を集めた「影武者」はどんな映画なのか。

主人公は戦国武将・武田信玄と顔がそっくりの盗人。ひょんなことから影武者に仕立てられ、ついには武田家の滅亡という運命をともにする物語だ。信玄と影武者の二役を勝が演じる予定だった。でも、それはとうとう実現しなかった。

番組の第一の視点は、アシスタント・プロデューサーの野上照代を軸にした、「事件は雨の日に起こった」。混乱の渦中で目撃したのは、ワンマンといわれた黒澤の決して自説を曲げない姿だった。その黒澤の黒澤たる由縁に迫っていた。

野上はスクリプター(記録担当)として、またアシスタント・プロデューサーとして、黒澤明と40年以上にわたって行動を共にしてきた。黒澤が自伝で「私の片腕」と評している。「影武者」で起きた事件の現場にもいた。

野上が語る。

何しろ雨の日ですよ、事件は。勝さんが「俺は大体こういう役者だから、とにかくやってられない」と言うから、黒澤は「ああ、それじゃあ、やめてもらうしかないな」と。

野上は全てを目の当たりにした。

日本が誇る映画監督、黒澤明。その出世作は「羅生門」(1950)。海外の映画祭で日本人として初めてグランプリを受賞し、敗戦で打地ひしがれていた日本に大きな勇気を与えた。

黒澤はその後、「七人の侍」「隠し砦の三悪人」「用心棒」と、日本の映画史に残る名作を生み出していく。が、しかし、黒澤が「影武者」に至るまでに数々の挫折があった。

ハリウッド進出を目指した「暴走機関車」「トラ・トラ・トラ!」の2作でアメリカ側と衝突し、監督を降りる結果となった。再起をかけて作った「どですかでん」は興行成績が惨敗に終わる。

野上が語る。

それが見事に当たらなかったので、まあ自殺未遂になった。私はそう思いますけどね。みんなに責任を感じていたんじゃないかな。あの人は昔からそういう人だから。

自殺未遂で一命は取り留めた黒澤。外国人記者から死のうとした理由を問われた。

「兎に角、一分一秒も生きていたくなかった」という返事をしていましたね。映画監督って、それが一番つらいでしょうけど、興行成績がありますからね。それで随分黒澤さんも悩んで、何とかね東宝も乗るような話をさんざん考えたんですよ。あの人、テレビっ子で、うちに居てテレビしか見ないからね。偶々、テレビで見たんでしょ、あの二人を。

黒澤が目を付けたのは、若山富三郎と勝新太郎の兄弟。よく似た顔立ちから「影武者」を発想した。信玄役に若山、影武者役に勝というアイデアだ。すると、この話に東宝が乗った。だが、兄の若山は体調を理由に辞退したため、勝が信玄と影武者の二役をこなすことになった。

さらに追い風が。黒澤を師と仰ぐコッポラとルーカスが制作資金を調達、東宝の資金と合わせ、当時日本映画史上最高の制作費で「影武者」はスタートした。

つづく