柳家権太楼「唐茄子屋政談」言いよどむ、言葉に詰まるくらいじゃないと、噺に心がこもらない

日本橋公会堂で「権太楼ざんまい」を観ました。(2022・06・06)

柳家権太楼という噺家は飽くなき探求者だと思った。

この日の二日前、6月4日に日本橋三井ホールで開催された「COREDO落語会」に出演し、「唐茄子屋政談」を演じたという。主催の山本益弘氏のリクエストで、このネタが事前に発表されていた。

出来は良かったそうだ。言葉がスラスラ出てきて、一般のお客様には評判が良かったという。だが、権太楼師匠は納得がいかなかったという。噺に心がこもっていなかったというのだ。言葉がスラスラ出てくる分、自分の気持ちにタメがなくなってしまい、登場人物の気持ちになって喋ることができなかったということだろうか。

だから、その日の会にも来ていたお客様には申し訳ないが、もう一度、この「権太楼ざんまい」で試してみたいという。客席からは拍手が起こった。

果たして、リベンジを期した「唐茄子屋政談」は素晴らしかった。言葉の一つ一つに引っ掛かりがあって、そのことによって登場人物の気持ちが溢れていた。

若旦那が炎天下で重い唐茄子の荷を担げずに転んでしまったところ。事情を訊いた通りすがりの江戸っ子が、荷を軽くしてあげるために、近所の連中に唐茄子を売りさばいてあげる。ガチャガチャじゃねえ!と断る半公に半年前に二階に居候させて世話していた頃のことを持ち出し、「それでも唐茄子は嫌いか!」と詰問する。さらに、知り合いでも何でもない湯屋へ行くだけの通行人にも、「土産にどうですか?」と売ってしまう。その江戸っ子の漢気がよく出ていた。

誓願寺店という貧乏長屋で出会ったおかみさんに、「私も三日間、何も食べていない苦しみがわかる」と言って、若旦那は売り貯めを全て、そのおかみさんに渡してしまう。これも江戸っ子気質というものだろう。何も職人だけの専売特許ではない。商家の若旦那にだって漢気はある。その思いの丈を権太楼師匠は目一杯に表現していた。

演じ終わって、「お仲入り~」と太鼓がなるのを止めて、「まぁ、いいでしょう」とポツリとつぶやいた。権太楼師匠は多分、この高座に合格点を出したのだと思う。

中入り後、もう一席「青菜」を演じる前に、「唐茄子屋政談」を総括し、こう言った。言い淀むくらいがいいんです。次の言葉は何だっけと思うくらい、自分の中で噛みしめてから口に出す方がいい。そういう意味で、さっきの「唐茄子屋政談」は、言葉がスラスラ出てこない分、気持ちが入っていた。そんなような趣旨のことを述べていた。

饒舌を良しとしない。ペラペラ淀みなく喋るのが落語ではない。気持ちをこめて、自分の中にある登場人物の心を吐き出すように言葉を紡ぐ。そういう作業があって、はじめて納得のいく高座が生まれるのだ。

柳家権太楼の矜持を見た高座だった。