【ザ・プロファイラー】温和な革命児 イラストレーター・和田誠(5)
BSプレミアムの録画で「ザ・プロファイラー 温和な革命児 イラストレーター・和田誠」を観ました。
きのうのつづき
和田誠は48歳で映画監督に挑戦する。デビュー作は戦後のドヤ街が舞台の「麻雀放浪記」。ポスターも和田自身の絵だ。この作品は数々の映画賞に輝いた。
番組のテーマ③は「なぜ、イラストレーターが映画監督として成功した?」。
1960年代、日本は高度経済成長期を迎える。それに伴い、広告業界も変化してきた。クライアントは1つの広告案では満足せず、和田に複数の案を出させ、その中から自分たちが選ぶようになった。
レストランに入って、カレーライスとハヤシライスを出せと言って、「うまそうなほうを食うから」と言うのと同じじゃないか。(和田誠「銀座界隈ドキドキの日々」)
それまでは広告のデザインはデザイナーに任されていた。しかし、これにもクライアントが口を出すようになった。
あるとき、和田は新聞の広告に赤ちゃんの後ろ姿の写真を使った。だが、クライアントの元から戻ってきた営業マンは「これでは駄目だ」と言った。「お客さんにおしりを向けるのは失礼だ」と言われたという。赤ちゃんのお尻を見て、失礼だと怒る読者がいるだろうか。僕は「子どもの使いじゃねえだろ!何でこの写真の良さを説明してこないんだ!」と怒鳴った。
こんなことが重なり、和田は9年間勤めた会社を辞めた。1968年、32歳。独立。仕事はないが、食わねばならぬ。さあ、どうしよう。
和田のピンチを救ったのが、子どもの頃から大好きで得意だったもの。そう、似顔絵だ。独立したタイミングで、「週刊サンケイ」の表紙の仕事が舞い込んできた。
週刊誌と似顔絵はピッタリなのに、どこもやっていないのはおかしいなって思っていたところに、「サンケイ」の話が来たから、すぐ「やります」って言ったんです。(和田誠「時間旅行」)
今をときめくスター、剛腕の政治家、月面着陸に成功した宇宙飛行士など、週刊誌ならではの「時の人」を4年間で200人以上描いた。1969年、和田のこうした仕事が評価され、文藝春秋漫画賞を受賞した。
夢にも思わなかったとはいえ、これはなんとも魅力的な賞であって、これを戴けたのだから、世の中楽しいとは思わずにいられません。
プライベートでも良いことがあった。和田はシャンソン歌手の平野レミの大ファン。当時はラジオで久米宏と共演していた。
平野が振り返る。
久米さんとうちの夫は麻雀仲間で仲が良かった。「一緒にやっている平野レミを紹介してよ」「あれは紹介できませんよ。レミなんかと結婚したら和田さんは一生を棒に振る」。
久米には断られたが、ディレクターに頼んで平野と食事、その夜、自分の家に招待した。
大地に足がピタッとついて動かない感じがしたのね。頼れる感じがして、こういう人と結婚したいと思ったら、「僕と結婚しない?」と言うから、「しましょうよ!」と言っちゃったの。
出会って10日で結婚。1972年。和田が36歳のときだ。
つづく