【ザ・プロファイラー】温和な革命児 イラストレーター・和田誠(4)

BSプレミアムの録画で「ザ・プロファイラー 温和な革命児 イラストレーター・和田誠」を観ました。

きのうのつづき

広告を作るのも面白かったので不満はありませんでしたが、それだけでは少々物足りない。それに絵本を作るのは子どもの頃からの夢のひとつだった。(和田誠「時間旅行」)

しかし、駆け出しのデザイナーに絵本を作ってくれと頼む人はいない。自費出版で作ることにした。そして、完成したのが「がらすの城」。1963年、27歳のときのことだ。

友人が作った童話に、和田が挿絵を描き、デザインから発送まで印刷以外の仕事を全て自分でおこなった。

絵本への情熱はますます募る。ついにプロの作家に子ども向けの話を書いてもらおうと訪ねて行った。相手はSF作家の星新一。一度だけ、彼の小説に挿絵を描いたことがあった。10年年上の売れっ子、しかも初対面だった。

自費出版なので原稿料はないんですけど、それでも書いてくれますか?出来上がったら、10冊差し上げます。

この頃、星は原稿料が不当に安すぎると出版社と交渉していた。そんな人に「原稿料はありません」と言ったのだが…。「わかった。書きましょう」。

そして出来上がったのが、「花とひみつ」。1964年、28歳のとき。400部限定で作られた絵本だ。

絵本作りは面白かったが、和田の本業は広告の文字や写真の配置をデザインすること。しかし…

デザインだけでは物足りないっていう気持ちがあって、もうちょっとイラストレーションの仕事が自分の中に占める割合が大きくなった方が楽しいんじゃないかと思っていた。

しかし、当時はイラストレーターという言葉すらほとんど知られていなかった。そこで和田は同業者の宇野や横尾忠則らと「東京イラストレーターズクラブ」を設立した。

宇野亞喜良さんが語る。

3人ともグラフィックデザイナーとして仕事をこなしていた。でも、イラストレーションを描くことも好き。これからは、もうちょっとヴィジュアルの時代になっていくんではないかと考えた。

東京イラストレーターズクラブでは、様々なイラストを載せた年鑑を発行して、イラストレーターの存在をアピール。世間にも徐々に認められていった。

1965年、仕事の幅をさらに広げる新たなチャンスに恵まれた。29歳のときである。新しく作る雑誌「話の特集」のアートディレクターをやってほしいという話だ。依頼者は父親の出版社を引き継いだ編集者、矢崎泰久だった。

雑誌作りに興味があったので引き受けたが、矢崎にこんな条件を出した。「金は要らないから、編集に口を出させて」。和田はデザインだけでなく、写真家やイラストレーター、さらに作家の人選もおこない、八面六臂の活躍だった。

創刊号の表紙はあえて自分で描かず、東京イラストレーターズクラブの横尾忠則に頼んだ。写真は会社の後輩の篠山紀信や友人の立木義浩に頼んだ。彼らが有名になるずっと前のことだ。

雑誌に寄稿したのは、寺山修司に小松左京など、売れっ子作家たち。インタビュー企画の1回目は映画スターの鶴田浩二。2回目は石原裕次郎という豪華な顔ぶれだった。

「話の特集」は若者熱い支持を集め、出版界に風穴をあけたと言われた。しかし…面白い雑誌が誕生したのだけれど、売れ行きはさっぱりだった。

矢崎さんは出版界ではまだシロウトだったから、部数を無闇に刷って、9割も返品になった。和田誠、このとき30歳。

泉麻人の分析

報酬より好きなことができるメディアがほしかった。

近藤サトの分析

才能ある人を発掘したかった。

阿川佐和子の分析

世の中を驚かせようという意気込み

岡田准一の分析

“タダでも面白いからやる”のが本当の幸せ

つづく