【ザ・プロファイラー】温和な革命児 イラストレーター・和田誠(6)

BSプレミアムの録画で「ザ・プロファイラー 温和な革命児 イラストレーター・和田誠」を観ました。

きのうのつづき

2人の男の子の父親となり、和田はますます仕事に励んだ。和田はアシスタントを使わず、全てを自分で描いた。特徴は兎に角、仕事が早いこと。

結婚して1年。和田が一番好きなものと公言するあるものの仕事に恵まれた。映画エッセー「お楽しみはこれからだ」の連載を開始。大好きな映画の名セリフを和田のイラストレーションとともに紹介した。和田の映画好きは筋金入りだった。

和田のインタビューから。

生まれて初めて映画を観たのは小学校に入学する前に観た思い出があるのね。映画を見に行くために、電車に乗らずに何時間か歩いたことは何度もありました。18~19歳の頃は1年に200本ぐらい観ていたからね。

連載当初、家庭用のビデオデッキは普及していなかった。映画のセリフは全て記憶を頼りに書いていた。

そして、47歳のとき。ついに自らメガホンを持つ機会が訪れた。あるとき、出版社社長で映画プロデューサーの角川春樹に、こう訊かれた。「あんた、いろんなことするけど、次は何をやりたいの?」。

「映画のシナリオが書きたい」。角川に勧められ、和田は実際にシナリオを書いてみた。出来上がった本には、セリフの上段にそれぞれのシーンが絵で描かれていた。こんな、シナリオは見たことがない。

そこで角川は「ここまでイメージが出来ているなら、監督は自分でやれ」。和田は即答できず、一週間悩んだ。映画監督は激務だ。今抱えている仕事を続けながらできるだろうか。しかし、結局引き受けた。

映画監督をやるチャンスなんて二度とない。それに…。

ぼくが要所要所絵なんか描いてあるのを、その通りに撮る監督だったら大したことないじゃないですか。個性的な監督さんだったら、無視すると思う。でも無視されるのも悔しいし(笑)。それを解決するには、自分でやるしかないって。

和田がシナリオに選んだのは「麻雀放浪記」。終戦直後の東京で主人公が様々な勝負師と出会い、生き抜いていく姿を描いた小説だ。

作者の阿佐田哲也はそれまで何度も小説の映画化を頼まれていたが、首を縦に振らなかった。終戦直後の東京を再現するのはお金がかかるというのが理由で、時代設定を現代に換えられるのが嫌だったからだ。

そんな阿佐田も、和田が示したプランには納得した。それは、ミニチュアで東京の焼け跡を再現し、しかも全編モノクロというものだった。

ニヒルな博奕打ち、ドサ健を演じた鹿賀丈史は初監督の和田に全く不安を感じなかったと言う。

スタジオに入ると、その日に撮る絵コンテが貼ってあるんですよ。和田さんの自筆で。きょうはこの絵を撮ります。バストアップならバストアップ、引きなら引きの絵が貼ってあるんですよ。そういうのは、非常に安心感を生みますし、役者もどういう芝居をすればいいか、発想にもつながる。現場も穏やか。和田さん自身も静か。その奥には、この作品にかける熱い思いを感じて、非常にいい現場でした。

それまでは一人か、少ない人数で仕事をしていたのに、撮影所には50人ぐらいのスタッフがいて、大声を出したりするから、監督なんて絶対できないと思っていたけど、やってみると意外とできちゃったね。

元映画雑誌編集長の植草信和が語る。

モノクロでなければ出せない雰囲気、状況、時代があると思うんですよね。ギャンブルを素材にした娯楽映画ですね。立派な娯楽映画にはなっているが、それで終わらずに、登場人物の心理描写、人生観、キャラクターを克明に描いているし、ドラマを面白おかしく見せるテクニックもある。まさか新人監督でここまでできるとは誰も思っていなかった。ものすごい衝撃的だったですね。

「麻雀放浪記」は麻雀を知らない人でも感動する高い評価を受け、数々の賞を受賞した。

撮影の合間に和田はこっそり皆の似顔絵を描いていた。打ち上げのときに、スタッフ全員にこの絵を配ると、一人がこう言った。「監督は絵でも食えるな」。和田誠、このとき48歳。

泉麻人の分析

人を引き寄せる力があったので、映画を実現できた。

近藤サトの分析

子どもの頃から映画を研究し、監督をやる自信があった。

阿川佐和子の分析

ほかの創作と同じように、出来上がりはすべて頭の中にあった。

岡田准一の分析

ジャンルの区分けがなかったから、自由に行き来できた。

つづく