【ザ・プロファイラー】温和な革命児 イラストレーター・和田誠(1)
BSプレミアムの録画で「ザ・プロファイラー 温和な革命児 イラストレーター・和田誠」を観ました。
「週刊文春」の表紙を40年間、2000号描き続けた。1960年発売のたばこ「ハイライト」のパッケージをデザインし、販売数世界一を誇った。本の装丁は2400冊以上手がけた。作家から是非にと指名を受けることが多かった。1961年放送開始の「みんなのうた」の第1回のアニメーションを担当した。映画監督としては「麻雀放浪記」「怪盗ルビイ」の作品で数々の映画賞を受賞した。マルチな才能の持ち主、和田誠を徹底的に分析した番組である。
和田は「自分の中では似たようなことをしていると思っているんです」と語る。(和田誠「時間旅行」)温和な人柄で、多くの俳優、歌手、作家に慕われた。そして、ものすごく嫌ったものがある。それは妥協。和田は自信作の広告デザインをクライアントに却下され、「子どもの使いじゃねえだろ!何でこの写真の良さを説明してこないんだ!」と営業マンを怒鳴った。(和田誠「銀座界隈ドキドキの日々」)仕事では完璧主義を貫いた和田。和田誠にとって、仕事とは?遊びとは?
和田誠といえば似顔絵だ。俳優、タレント、小説家など数多くの人物を描いた。学生の頃に作った先生の似顔絵による時間割がその才能を物語っている。
番組のテーマ①は、「なぜ、似顔絵に魅せられた?」。
1936年(昭和11年)、和田は大阪に生まれた。両親は東京育ちだったが、父親がNHK大阪に就職したからだ。当時はラジオが最先端のメディアだった。だが、和田はラジオを聴くより、絵を描いて遊ぶことが好きだった。中耳炎にかかって、右耳が聴こえなくなっていたせいだ。
ぼくはひ弱でうちの中で絵を描いているのが好きな子どもでした。親父に「外で遊べ!」とよく怒られていました。(和田誠「時間旅行」)
絵を描くのは好きだったが、図画の授業は嫌いだった。
勉強をして絵を描くのは苦痛だったということでしょう。楽しみのために絵を描く。それは子どもの頃から描くことを仕事にしている現在にいたるまで一貫した気持ちであるように思っています。
戦争が激しさを増した1945年(昭和20年)。9歳のときに千葉県の親戚に一人で疎開することになった。疎開先で漫画を描いた。漫画は家族と離れ、見知らぬ土地へ来た淋しさを慰めてくれたという。
三つの話からなる短編集。最後のページには著者検印の印紙も貼り、印刷所の名前も書いて、絵というよりも一冊の本を作った。9歳のときのことである。
つづく