【ザ・プロファイラー】温和な革命児 イラストレーター・和田誠(2)

BSプレミアムの録画で「ザ・プロファイラー 温和な革命児 イラストレーター・和田誠」を観ました。

きのうのつづき

終戦後、和田は両親のいる東京へ戻った。そして、小学校5年生のときに、ひょんなことから自作の漫画「バカサレタベンケイ」が雑誌に掲載される。弁慶がやっつけた相手は実は牛若丸で、弁慶が謝るというストーリーだ。

この作品が世に出るきっかけを作ってくれたのが、小学4年生から担任だった柳内達雄先生。型破りな先生で、独断で教室を飛び出し、生徒たちを映画の撮影所やレコード会社などに見学に行った。授業では児童雑誌を読んだ。柳内先生はこの雑誌の編集部と交流があり、普段から生徒の絵や作文を見せていた。そこで、和田の漫画が編集部の目に留まったというわけだ。「バカサレタベンケイ」は和田作品の記念すべき雑誌掲載第1号となった。

似顔絵に夢中になるきっかけも柳内先生だった。ある日先生は「きょうの新聞に載っている政治漫画が面白い」と言った。家に帰った和田少年が新聞を広げると何とも独特な政治家の似顔絵があった。清水崑という人の作品だという。清水は後に「かっぱ天国」などで有名になる漫画家だ。

もう一目惚れというか、この人の絵をもっともっと見たいと思いました。(和田誠「似顔絵物語」)

中学生になると和田は学校の先生の似顔絵を描くようになった。清水崑が学生時代に先生の似顔絵による時間割を作ったということを知り、自分もやろうと思ったのだ。学校では、授業そっちのけで似顔絵を描く毎日。高校生になっても、ひたすら先生の似顔絵を描いた。授業中も、家でも、時間さえあれば似顔絵だ。高校2年生のとき、ついに先生の似顔絵による時間割が完成した。

みんなそれを定期入れに入れたんです。これは嬉しかった。クラス公認ということですから。

さらにこの頃、自らの将来に影響を与える出会いがあった。

「世界のポスター展」を見て、ヨーロッパのポスターがとても良くて。イラストレーションを使ったポスターが。「あ、これだ」と思った。ポスターを描く人になりたい。イラストレーションという言葉も知らなかったがそう思った。(
1984年「YOU」)

1955年(昭和30年)。18歳のとき、多摩美術大学図案科に入学。ここで広告デザインを勉強した。大学3年生のとき、「日本宣伝美術会展」に初めて出品する。和田が作った「夜のマルグリッド」はフランス映画のポスターで、日本未公開で前から見たいと思っていた作品だ。

「日宣美」は自分から出そうと思ったんじゃなくて、みんなが出すから一緒に出すという感じ。入るわけないと思っていた。

しかし、和田はグランプリを受賞。初めて学生が受賞するという快挙だった。

和田と長い付き合いのあるイラストレーターの宇野亞喜良さんは言う。

学生時代に描いた似顔絵は似せることを主体にしている。これは寧ろ、造形的。似せることに一生懸命ではなくて、デザイン的なある節度でやめている。ピンクなんだけど、ブルーがちょっと入っている。少なくとも3色くらいが微かに入っていて、やや濁り系の色彩。ピンクとブルーが隣同士にきても下品にならない。

グランプリを獲った和田は一躍、時の人となる。アニメーションや似顔絵の仕事が次々と舞い込んだ。21歳のときだった。

阿川佐和子の分析

母親に認められて、絵を描く自信が持てた。

近藤サトの分析

似顔絵で同級生を喜ばせたかった。

泉麻人の分析

似顔絵に批評性をこめた。

岡田准一の分析

観察力が似顔絵につながった。

つづく