不朽の名作「あしたのジョー」時代と生きたヒーローは今も生き続けている(4)

NHK―BSプレミアムの録画で「アナザーストーリー あしたのジョー・時代と生きたヒーロー」を観ました。

きのうのつづき

なぜ力石は死ななければならなかったのか。そう、問いかけたのが寺山修司だ。作中で力石が死んでから2か月後の1970年3月24日、寺山は自らの企画で力石の葬儀を執り行った。寺山はテレビアニメの主題歌の作詞もしていた。あの♬サンドバッグに浮かんで消える~という、あの歌だ。

会場となった講談社には特設リングが設けられた。さらに実際の葬儀さながらに、僧侶による読経や焼香もおこなわれた。

アニメ「あしたのジョー」のプロデューサーを務めた丸山正雄は葬儀に出席し、寺山の言葉を聞いていた。

丸山が語る。

寺山修司さんがすごく作品の何かにつけて語っていらした。あんなに熱っぽくジョーを語る人を知らない。「テレビが始まることだし、ひとつ盛り上げて、力石の葬式をしようか」と。言い出しっぺなんです。

実はこの葬儀、一週間後にはじまるアニメの宣伝を兼ねたイベントだったが、取材が殺到。参列者が700人を超えた。

寺山さんらしいと思うのは、嘘を本当にしていく。虚構に対して非常に大きな力を感じている人。

力石徹よ。君はスーパーマンの戯画のような顔して、資本家の支援を得て、技術と判断によって、リングに君臨していた。夢よ、ふりむくな。お前を殺した者の正体を突き止めるまでは。力石徹よ。権力の露払い、仮想敵にすぎない男よ。お前を殺したのは誰だ、誰なんだ。

大学闘争をしていた頃から寺山と親交のあった福島泰樹は力石にひとつの時代の終焉を重ね合わせたのではないかと言う。

1969年から70年に至る時代のせめぎ合いの中で、人々が輪になって闘い、人と人とが直接愛し合うことができた時代、それが終ってしまうという。

1970年代になると、急速に進む工業化と経済成長の陰で、公害問題が各地で噴き出していた。都市は過密の一途を辿り、熾烈な競争社会も到来。人々の間に自己中心的な風潮が強まっていった。

この頃、若者たちの闘争は迷走を始めていた。過激派と呼ばれるグループも現れ、闘いへの共感は急速に失われていった。こうした迷走を決定づけたのが、1970年の赤軍派のグループによるよど号ハイジャック事件だ。あの力石の葬儀から一週間後のことだった。

実行犯のリーダー、田宮高麿は北朝鮮に向かう際、声明文にこう記した。「我々は明日のジョーである」。この声明を知った山崎照朝は体制側の学生だったが、大きな衝撃を受けたという。

彼らがバンと「あしたのジョーだ!」とやっちゃったから、俺たちはなんかシュンとした感じだった。彼らの場合は体制を変えようとやっている。俺たちはただ学校を守る。あれを言われたら、本当に力が抜けたような感じになった。

寺山修司はこうした時代の転換と力石の死を重ね、新聞に文章を寄せていた。

「あしたのジョー」では、丈と力石徹の対決のなかに、さまざまな比喩を投げこみ、69年から70年へかけての闘争的な時代感情を反映して見せるわけだが、力石もまた何者かによって「闘わされていた」のであり、ただの犠牲者だったのだという解釈を私は採らない。力石は死んだのではなく、見失われたのであり、それは70年の時代感情のにくにくしいまでの的確な反映であると言うほかないだろう。

福島泰樹は、寺山が見出そうとしていた力石の死の意味をこう読み解く。

それは若者たちが闘う目標を失っていく時代との、そして高度成長の中にあっても人と人との触れ合いが実感できた1960年代との決別ではなかったか。まさに見失われた“あした”。力石徹が亡くなってしまうことは、“あした”が無くなってしまうこと。時代葬ですよ、だから。寺山が考え、演出したのは時代の葬式、時代との決別の辞。それが寺山修司が行った力石徹への弔辞であり、葬式であったと思います。

力石の死後、連載では矢吹丈も目標を見失い、ボクシングの表舞台から姿を消していく。しかし、この男はここで終わらなかった。

つづく