【伝説の強豪力士 雷電為右衛門とは】御嶽海、優勝!長野県出身の大関が227年ぶりに誕生へ
大相撲初場所千秋楽、関脇・御嶽海が横綱・照ノ富士を寄り切りで破り、13勝2敗で3度目の優勝を決めた。そして、来場所の大関昇進を確実としたが、長野県出身の大関は雷電以来、227年ぶりということだ。(2022・01・23)
講談などでも有名な、伝説の大関・雷電為右衛門(浦風部屋)について、調べた。
一代を通じて敗戦はわずか10回、しかも花頂山のほかには、同じ相手に二度と負けなかった雷電は、大関の位にあること足かけ17年、この間、相手方の大関の交代するもの、小野川をはじめ11人を算し、このうち大関として勝ちを与えたものは一人もなく、多くは鎧袖一触というありさまだった。まさに古今無双の強豪である。
雷電は、その盛時には手勢3つを禁ぜられたという。3つとは、張り手、鉄砲(双手突き)、閂(泉川の矯め出し)である。もし、これを使用したならば、凶器にも勝る威力があったからで、これだけハンデをつけられても、なお優勝に相当する好成績26回、全勝8回、土つかず23場所という大記録を残している。
それでは、これほどの強豪が、なぜ横綱を張れなかったのだろうか。かつての名講釈師・大島伯鶴は、得意の「寛政力士伝」において、雷電が、その愛弟子・越の海勇蔵を暗殺した四海波を、土俵の上で投げ殺して復仇を成し遂げたため、せっかくの横綱問題も立ち消えになったと説明していたが、真偽のほどは測りがたい。
また雷電は、その土俵上の剛強に似ず、やさしい心を備えていたことは、松浦静山の「甲子夜話」にも記されており、資性温順、名利に恬淡で、あえて横綱を望まず、その話があっても辞退したとの説もあるが、これも史実にはないことである。
それより、むしろ当時の横綱免許は、将軍上覧相撲に際しての儀式免許であり、谷風の病没によって、ようやく大関に昇進した雷電には、その大関の独壇場において、上覧相撲の栄に浴する機会がなかったから、横綱の議も起こらなかったという説が強い。
雷電の相撲は、積極果敢、攻めを第一とするもので、このため、まれに取りこぼしもあったが、生涯において引き分けが2回しかないということは、強引な勝負にかける雷電の本領を示しており、このような雷電に、とにかく相撲らしい相撲をとれたのは、柏戸宗五郎(雷電より2歳の年少、優勝7回、全勝1回)のみであり、柏戸は雷電に12戦して、5敗しかしていない。もっとも勝利はただの1回であるが、それでも相手が雷電であるから、相当な善戦といってよい。
信濃國(長野県)小県郡滋野村大石(現、東御市)の出身。本名、関太郎吉。明和4年生まれ。天明4年、江戸へ出て、その実力の測り知れぬところから、しばらく浦風部屋で稽古していたが、雲州候のお抱えとなったので、松江に赴き、5年後の寛政元年、まず大坂相撲に出場、次いで江戸勤番となったので、同2年11月から、直ちに西関脇に付け出された。寛政7年3月、大関昇進。六尺五寸(196センチ)、四十五貫(169キロ)。得意は突っ張り、上手投げ、寄り切り。
一代の戦績は、35場所(21年)。総取り組み数285、勝254、負10、引分2、預かり14、無勝負5、休40。勝率92.8%。優勝26回。土つかず24場所。
大関としては、27場所(16年半)。総取り組み数222、勝201、負8、引分1、預かり8、無勝負4、休74。勝率93.5%。
引退後は、弟子を連れて各地を巡業し、自身も土俵入りを続けていたが、文政8年、江戸において病没。享年59。