【アナザーストーリーズ】そのとき歌舞伎は世界を席巻した~十八代目中村勘三郎の挑戦~(1)

NHK総合テレビの録画で「アナザーストーリーズ そのとき歌舞伎は世界を席巻した~十八代目中村勘三郎の挑戦~」を観ました。

2004年、アメリカ、ニューヨーク。エンターテインメントの殿堂で江戸の情緒が人々の心を鷲づかみにした。十八代目中村勘三郎による特設の芝居小屋での異例の歌舞伎公演を演劇関係者は絶賛した。「この圧倒的な芝居は観客にアドレナリンを放出させる」「今日の芝居は、私がこれまで見た中でも最高のものだ」。目指したのは、伝統芸能・歌舞伎を今生きる人が楽しめる演劇として届けること。

斬新な演出、伝統からの逸脱と批判も浴びた。それは覚悟の上だった。生涯をかけた挑戦とはどんな闘いだったのか。

2004年7月17日を番組では「運命の分岐点」とした。満場の喝采を浴び、特設の芝居小屋で歌舞伎が世界に通用することを証明した日。

中村勘三郎(1955~2012)。当時は勘九郎だった。その闘いは苦難の連続。その都度、多くの人々を巻き込み、ジャンルを超えた表現者とタッグを組み、壁を乗り越えてきた。

番組の視点その1は、「盟友と起こした革命 劇作家・野田秀樹」。

同い年で親友。ニューヨーク公演の3年前に勘三郎に口説かれ、野田は初めて歌舞伎の脚本、演出に挑戦した。2001年の「野田版 研辰の討たれ」だ。二人の天才による成功は、ブームを揺ぎないものにした。歌舞伎を現代に生きる芸能に昇華させた。

異例のタッグ。まるでミュージカルのような一場面。伝統芸能・歌舞伎の創造的破壊とも言える仕事だった。野田が語る。

伝統的というのは面白いということ。もともと面白いから伝統になったのであって。面白いものをちゃんとやれば、それが伝統になるということだと思います。

1980年代のバブル爛熟期。二人は渋谷の百軒店商店街で偶然に出会っている。30歳になったばかりの二人が、交わした言葉は「だよね?」。

その当時、野田は時代の寵児だった。劇団夢の遊眠社(1976~1992)を主宰し、演劇界に新風を吹き込んでいた。矢継ぎ早のセリフ、圧倒的な身体能力。その舞台は若者たちを虜にした。これまでにはない新しい演劇。

一方、歌舞伎の観客は固定化し、客足は伸び悩んでいた。勘三郎、30代。飛躍のチャンスがなかなか訪れない。その現状を打破したいと考えていた。野田と出会い、たちまち意気投合した。

野田が語る。

全然ジャンルは違うのに、極めてバカバカしいことも好きだし。彼はやっぱり「演劇は最後は行き着くところは人間だ」と思っていた。そういうところは、同じ匂いを感じていたんじゃないですかね。

同世代の小劇場の人間が好きなようにやっているのを見て、「くそっ」ぐらいに思っていたんじゃないですか。こっちは自由にやっていたんで。

芝居談議に花を咲かせる二人。だが、一緒に仕事をするのは10年以上先のことだった。

本名、波野哲明。1955年生まれ。4歳で初舞台。天才子役として活躍し、映画やテレビにと活動の場を広げた。

坂東玉三郎が語る。

お母さまが大変厳しかった。しかも、先代勘三郎はさらに厳しかった。だから、“基本の根幹”がしっかりしていたんです。どんなにおちゃらけた舞台をしようとも、見に行って、おちゃらけて見えなかったんですね、僕の中では。修行した体の基本というものが根本的にあったという大きな違いなんです。

市川左團次が語る。

暴れ者というのか。わんぱく坊やというのかね。飲みに出かけて、ほかのジャンルの方、テレビとか新劇の方とご一緒することも多くて、そこで演劇論になって、しまいには喧嘩が始まっちゃった。

遊びも稽古も人一倍。歌舞伎界を背負って立つ存在と、将来を嘱望されていた。

1988年、父の十七代目勘三郎が逝去。大きな後ろ盾を失った。このとき、32歳。以降、歌舞伎座では役に恵まれなくなる。家柄、血縁、実力が複雑に絡み合う歌舞伎界で、早くに先代を亡くすダメージは計り知れないと関係者は言う。

歌舞伎評論家が語る。

いつ父親が亡くなるかっていうのは、すごい大きいことかもしれない。何年間か不遇の時代が来るのは、多分当然なんですよ。むしろ、亡くなる前に役に恵まれすぎていたかもしれない。お父さんの力で何でもかんでも、いい役に押し込んでくれたんです。

勘三郎は野田に救いを求めた。「歌舞伎を変えてくれ」。

野田が言う。

自分の劇団が精一杯。歌舞伎を自分が書くということが、ちょっと見当もつかなかったですね。

勘三郎は行動に出た。8月の歌舞伎座は三波春夫ショーや松竹歌劇団の公演を当時はおこなっていた。そこに、若手を中心とした納涼歌舞伎を企画。「怪談乳房榎」といったわかりやすい演目で客を楽しませることに徹すると、新たなファンが行列を作った。

当時の朝日新聞の記事。人気俳優の楽屋口に若い女性ファンが連日押しかけたのも、最近にないことだった。

松本幸四郎(当時は市川染五郎)が語る。

歌舞伎を変えたいという思いにすごく共感した。8月に古典ですごく大きな役をやらせていただいて。勘三郎さんは「僕はこれで出るから」と脇役に徹し、「皆で作ろう」という空気が流れていました。

1994年。勘三郎は驚くべき行動に出る。渋谷の街に歌舞伎を持ち込んだ。コクーン歌舞伎である。小劇場出身の串田和美とタッグを組んだ。古典に新しい解釈を加え、ド派手な演出で歌舞伎の魅力を若者たちに訴えた。

大竹しのぶが言う。

彼の情熱を目の当たりにしました。コクーン、いいね!と、串田さんと3人で盛り上がった。芝居は感動、号泣です。

つづく