田辺いちか「村越茂助」勇猛果敢な武士、左七文字を戒めにして

上野広小路亭で「講談協会定席」を観ました。(2021・10・28)

田辺いちかさんが前日に続き、「村越茂助」という良い読み物を聴かせてくれた。勇猛果敢だけれども、学問が無く、粗忽で、文字が書けない茂助という家来を家康が寵愛したのがよくわかるエピソードである。

「左七文字」の部分は良い話だ。家康は武士もこれからは文武両道でなくてはいかん、と茂助に文字を教えていたという。茂助は覚えたての文字が嬉しくて、ほかの侍たちに自慢したくて仕方がない。一から数字を書き始めたが、七のところで迷った。横棒を引き、縦に棒を下ろすが、これを右に曲げるか、左に曲げるかを忘れてしまう。左に曲げて、満座の中で恥を書いてしまった。

家康が言う。「知らぬ存ぜぬをはっきり言わないといかん」。知ったかぶりは諭す。以来、茂助の家紋は左曲がりの七、「左七文字」にして、戒めにしたという。良い話ではないか。

「誉れの使者」の部分は、その左七文字を象徴する武勇伝だ。豊臣秀吉が日吉権現を建立する際に、家康に一万石の寄進を命じた。しかし、家康が寄進したのは一千石。このことが秀吉に知れ、怒りに触れた。なぜ一千石なのか、申し開きをせよとの沙汰だ。

簡単に言うと言い訳の使者を出向かせなければならなくなった。こんな嫌な役は誰もやりたくない。そこに名乗りを上げたのが、茂助だった。歴戦の勇士はこういうところでも、家康に恩義を感じ、嫌な役を自ら買って出る。

だが!生来の粗忽者。口上を聞かずに、出向いてしまった。秀吉と対面するも、何も言えない。人払いをしてもらい、二人きりになって、「口上を聞くのを忘れてきた」。怒る秀吉。「手討ちだ!」。茂助はその場で素っ裸になる。筋骨隆々の体の持ち主だ。そこに何十もの刀傷がある。秀吉はそこに目がいった。

説明する茂助。これは姉川の合戦、これは三方ヶ原の戦い、これは小牧山の戦い・・。刀傷が戦功になる。秀吉は気に入った。茂助は別にそれが計略であるわけではない。純粋なだけで、訊かれたことを素直に答えたまでだ。

だが、ここで茂助は機転が利いた。これらの傷を秀吉様はどれほどの値をつけるか?と。秀吉の答えは「三万石」。茂助は返す。「拙者は徳川家から千石きりしか与えられていません」。

徳川価格の千石は豊臣家の三万石に値するならば、先般のご寄進は正当な額ではなかったのかと。これには、秀吉も参った。

家康も戻ってきた茂助からその話を聞き、大層喜んだ。あっぱれ!ということで、茂助は千五百石に加増になったという。

おそらく、この話はフィクションだろうが、講談を聴いていると、フィクションとわかっていても、心動かされることが沢山ある。講談は良いなあ。