【プロフェッショナル 漫画家・浦沢直樹】心のままに、荒野を行け(2)
NHK総合の録画で「プロフェッショナル 仕事の流儀 漫画家・浦沢直樹」を観ました。(2007年1月18日放送)
きのうのつづき
浦沢が漫画を描き始めたのは5歳の頃。両親は不在がちで、いつも祖母と留守番をしていた。遊び相手もおらず、毎日、チラシの裏に手塚治虫の漫画を描いて過ごした。
小学生になると自作の漫画を描くことに夢中になる。絵は大人が驚くほど上手かった。
中学時代、将来を決定する二つの出会いをする。一つは手塚治虫の漫画「火の鳥」。愚かさや汚さをさらけ出しながら懸命に生きる人の壮大なドラマ。自分もこんな文学的な漫画を描きたいと思った。
もう一つの出会いは、フォークロックの神様、ボブ・ディラン。信じる道を貫き通す生き方に痺れた。ディランと手塚が生きる指針となった。
22歳のとき、原稿が雑誌編集部の目に留まり、漫画家としてデビューすることになる。まず売れなければ描きたい漫画を描かせてもらえない。夢中で取り組んだのが、柔道漫画「YAWARA」。
どうすれば読んでもらえるか、必死で考え、アイデアを盛り込んだ。気が付くと、3000万部の大ヒットになっていた。7年にわたる連載が終わったとき、今度は自分が描きたい漫画を描こうと思った。「火の鳥」のような人間の本質を描く漫画。
しかし、出版社からはこう言われた。「もう一度、スポーツ漫画を描いてくれ」。ファンがそれを求めていた。浦沢は断れなかった。
そこで、スポーツ漫画の枠の中で、思いを実現しようと考えた。テニス漫画「HAPPY!」。嫉妬やねたみといった人間の汚い面を積極的に盛り込んだ。しかし、複雑な人の内面を描くのは簡単ではなかった。絵の技術が目指すドラマに追いつかない。
浦沢が振り返る。
自分の中で人間の裏側を描くとか、本質を描くとか思っているのに、実力がない。磨きをかけることが一番きつかったかもしれない。
売り上げも巻を追うごとに落ちた。求められているのは、「YAWARA」のような漫画だった。ある日、噂が聞こえてきた。「あの漫画を見捨ててないのは浦沢だけだ」。味方の無い孤独な闘い。
だが一つ、浦沢を支えるものがあった。ボブ・ディランの孤高の生き方。60年代に反戦フォークの神様と言われたディランは、ある時期ロックに転向し、ファンの怒りを買う。コンサートはブーイングで埋め尽くされた。罵声の中でディランはロックを歌い続けた。
浦沢も自らの志を信じ、漫画と向き合った。やがて、女の嫉妬の怖さ、人間の裏側をペンで捉えられるようになってきた。
次の連載ではさらに挑戦的な漫画に挑む。サイコサスペンス「MONSTER」。心に闇を持つ冷酷な殺人鬼とそれを追う日本人医師。人間の持つ善と悪の二面性を真正面から描いたこの漫画は2000万部の大ヒットを記録する。志を貫き通し、目指す高みに近づいた。
つづく