【プロフェッショナル スタジオジブリ プロデューサー・鈴木敏夫】自分は信じない 人を信じる(中)

NHK総合の録画で「プロフェッショナル 仕事の流儀 プロデューサー・鈴木敏夫」を観ました。(2006年4月6日放送)

きのうのつづき

「自分は信じない。人を信じる」。この独自の流儀をつかんだ陰には、20代の苦い日々があった。

鈴木は昭和23年生まれ。団塊の世代だ。文章を書くのが得意で、ノンフィクションライターを目指していた。大学を卒業後、大手出版社に就職。週刊誌の特集部に配属された。記者として、全国を飛び回り、週1本のハイペースで記事を書き続けた。文章力には自信があった。

しかし、ある日、上司が言った一言が胸に突き刺さった。「お前の記事はどこでも削れる」。文章は上手いが、深い取材やこだわりがない、ただ器用なだけの記事だと糾弾されたのだ。

鈴木は振り返る。

ショックだったんですよ。自分で自信を持っていたから。自分の記事が他の人より劣っていると思っていなかったもん。

その後、些細なことで上司と衝突し、特集部を追い出された。異動先はこれから創刊するマニア向けアニメ雑誌「アニメージュ」編集部。各部の余った人材を寄せ集めて作った部署だった。鈴木はアニメには何も興味がなかった。「鉄腕アトム」くらいしか知らなかった。

そんなとき、取材で一人のアニメーターと出会った。宮崎駿、37歳。会うなり、言われた。「こんなくだらない雑誌に、コメントは出したくない」。鈴木は口を利いてくれるまで、ひたすら待ち続けた。話をしてくれたのは三日後。文学や民俗学の話が溢れ出した。

鈴木が語る。

人間が面白かったんです。人が腹の立つことを言うわけでしょう。なかなかそんな奴はいないからね。毎日、兎に角会ったんです。会って、喋るのが面白くてしょうがなかったから。

これだけ面白い奴がアニメの世界にいる。真剣にアニメ雑誌をやろうと思った。しかし、編集部員はわずか6人。鈴木含め、アニメの知識はほとんどない。一番詳しいのは、編集部に出入りしているアニメ好きの学生たちだった。

鈴木は決めた。熱意さえあれば誰でも記事を書かせる。ある日、学生の一人がやってきた。渡邊隆史。斬新なロボットアニメがはじまる。取材をしたいと言った。

鈴木は渡邊にすべてを任せた。送られてきた原稿を見て驚いた。描きおろしのイラストから、今後のストーリーまで溢れるほどの情報が盛り込まれていた。

渡邊が振り返る。

僕は学生で仕事の経験が何もなかったにもかかわらず、全幅の信頼を置いて、やれ!と言われたら、やるしかないと思うし、自分の中で奮い立ったんですね。

渡邊の連載は人気を呼び、アニメも大きなブームとなった。当初7万部だったアニメ雑誌が40万部にまで増えた。その原動力は学生たちの活躍だった。

その勢いに乗って、連載漫画のアニメ化に挑んだ。「風の谷のナウシカ」。あの宮崎駿の才能を信じ、監督を任せた。映画の歴史を変える快進撃はこうしてはじまった。

つづく