【プロフェッショナル 指揮者・大野和士】崖っぷちの向こうに喝采がある(下)

NHK総合の録画で「プロフェッショナル 仕事の流儀 指揮者・大野和士」を観ました。(2007年1月25日放送)

きのうのつづき

去年(2006年)9月、ドイツオペラの最高峰、ワーグナー作曲、楽劇「トリスタンとイゾルデ」に大野は挑んでいた。上演時間が3時間を超える難曲中の難曲である。その主役トリスタン役に、テノール歌手ジョン・ケイズを抜擢し、指導に力を入れた。大野がその声に惚れこんだのである。

トリスタンはオペラ歌手にとって最も過酷な役の一つだと言われる。上演中、長い独唱が何度も繰り返され、最後のクライマックスでは40分間ほぼ一人で歌い切ることが求められる。声量のコントロールや息継ぎのタイミングを間違えれば、その先が歌えない。トリスタン役の出来は公演の成否を決める。

しかし、大野はあえて新しいトリスタンの誕生にこだわった。

危険を冒してでも、新しい顔でいきたい、というのがあったんです。新しいスター誕生を手がけると。

公演2週間前の舞台稽古。トリスタンと王女イゾルデの禁じられた恋物語は上々の出来だった。しかし、劇場の支配人から厳しい言葉が出た。「力み過ぎ」。舞台に移ったことで、声量のコントロールがうまくできていないと。

大野はジョンに休日だった翌日に個人レッスンをしようと声をかけた。ジョンを大役の重圧が弱気にさせていた。「壁を越えてみせるんだ」。今、世界中でトリスタンができる歌手は10人に満たない。抜擢は大きな賭け。うまく歌い切れなければ、その重圧は大野に降りかかる。

オーケストラの前に立てば、歌手としての本能に火がつくはずだ。やりきってくれる。大野は信じていた。

本番3日前。最後の全体リハーサルが行われる日だ。本番さながらの仕上げだ。ここでアクシデントが起きた。イゾルデ役の女性歌手が気管支炎で倒れたという。大野は急遽、合唱団の中にイゾルデの代役をできる女性を探した。リハーサル1時間前。大野は代役に歌の稽古をする。だが、イゾルデ役を歌いこなすのは容易なことではない。うまくいかなかった。

ここで、大野は決断した。リスクは自分がとる。自分がイゾルデを歌うことにしたのだ。指揮者が歌い手の代役を務めるなど通常はあり得ない。だが、あえて自分が歌うと決めた。

大野が言う。

自分の気迫とジョンに教えたこと、イゾルデに教えたこと、それをオーケストラに聞かせること。それによってテンションを高くすること。歌い手がいないとオーケストラのモチベーションは下がりますから。それは嫌だったんです。「トリスタンとイゾルデ」をいかにして本番に向けて高めるか。そのベストは私が歌うこと。それが指揮者の仕事なんです。

全体リハーサル、午後6時30分スタート。オーケストラを指揮しながら、ジョンを支えるように歌う大野の姿がそこにあった。ジョンは見事に歌い切った。目指すはさらなる高み。公演本番はイゾルデの代役が用意できて、事なきを得た。大野和士にとって、プロフェッショナルとは?

どんな状況になろうとも自分のベストを尽くすべく、その試みを最後まで諦めずにすることですかね。

オペラ歌手の代役を、たとえリハーサルとはいえ指揮者がするとは!これぞプロフェッショナルではないか。チームワークのテンションを下げずに、むしろ上げることに貢献した大野さんの決断には学ぶことが多かった。ありがとうございました。