【談春アナザーワールド Ⅻ】「お若伊之助」

立川談春師匠が2010年1月にスタートして、18回にわたっておこなった「談春アナザーワールド」の当時の記録を残ししておきたい。きょうは2012年3月の第12回だ。

友人が5年前に心臓の手術をした。そうしたら、また再手術が必要だと医者に言われたという。これはおかしい。怪しい。医者が悪い。ちゃんとした大学病院の先生だという。知り合いが、「心臓では世界で何本の指に入る」名医を紹介した。その名医が診察すると、「これは手術が必要です」。手術は失敗じゃなかった。心臓が悪くなっているのだと。さて、二度目の手術はどちらの医者に頼むか?世界的な名医を選んだ。最初の先生のプライドはズタズタだ。「どなたに執刀してもらうんですか?」。その世界的名医の名前を出すと、「日本にいるんですか?ドイツにいるんじゃないんですか?なぜ、あなたはこの先生を知っているのですか?」「知り合いに紹介されたんです」。先生は、納得してカルテを渡してくれた。普通だったら、5~6時間かかる手術が3時間で終わった。これで、「良かった」では終わらない。何と!断った先生が天皇陛下のバイパス手術をしたのだった!「この人、日本の名医なんだよ。世界でも有数のバイパス手術の権威らしい」。あるんですな。与太郎噺でも、金明竹は面白くても、道具屋は駄目みたいな。マクラは落語みたいな本当の話だった。

立川談春「お若伊之助」
閑静な根岸の里にある長尾一角の剣術道場。春の宵。年の頃16、7の娘盛りのいい女が縁側に座り、庭を眺めている。女の顔は色白を超えて、青みがかっている。患っているような風情だ。昼に雨が降った後、晴れあがった夕暮れ時、庭の桜を眺めては、うつむいている女と風が吹き散る花びらは一服の絵のようだ。すると、垣根の外に頬かむりをした男の影。腕を組んで、下を向いて立っている。女の顔に赤みがさし、目と目が合う。その男に駆けよると、袖にすがって倒れ込む。男は頷いて、出て行った。夜。切り戸を開けて、男を自分の部屋に入れる。蝋燭で映った、二人の影が重なり合う。以来、男は毎夜毎夜、女の部屋を訪ね、逢い引きを重ねるようになった。そのうち、それが一角の知ることとなる。「油断ならぬ」。だが、手遅れだった。女のお腹がポコランとせり出した。

長尾一角は鳶頭の初五郎を呼びにやる。「に組の初五郎と申します。先生からお招きをいただいて、とるものもとりあえず参りました」。これを取り次ぎの伴蔵が聞き違えて、「煮込みのおはつ。ネギマはいかが?とろろもございます」と一角に伝えるところは、いかにも落語。「お嬢様の塩梅は?」「近頃はよろしいようだ・・・伴蔵、下がりなさい。若は?寝ているか。手を叩くまで誰も入れるな」。そして、一角は「実は・・・」と話す。「一中節の師匠、菅野伊之助を若に紹介してくれたのは、お前に相違ないな?妹は若を預かってくれの一点張りで事情がわからない。話してくれないか?」。初五郎は「恥を覚悟で話します」とはじめた。

日本橋殼町の生薬屋栄屋は主人が亡くなったが、女将さんが切り盛りをして、大層繁盛した。その栄屋の一人娘、お若は、育ちが良くて、品があって、いい女。母親は目の中に入れても痛くないという可愛がりようだ。そのお若が、その頃、江戸で流行っていた一中節を習いたいという。店が忙しいので、お若が習いに行くのに、婆やを出すことができない。いい師匠があったら、家に通ってもらおうということになった。出入りの鳶頭、初五郎に相談すると、「それなら、願ったり叶ったり。菅野伊之助という元は侍の28になる男がいます。芸の修業をよくして、見所のある、了見のいい男です」と紹介した。「大事な一人娘。婿入り前に妙な間違いがあったら」と不安に思う母親に、初五郎は「芸道一筋の堅い男です。大丈夫です。出入りが叶えば、伊之助の格も上がる。芸は折り紙つきですから」と請け合った。「では、お願いしようか」となった。

しかし、それは男と女。ましてや伊之助はハッとするような美男子。男っぷりがいい。お若がすかっり惚れこんでしまい、二人はいい仲になってしまった。女将が「近頃、様子がおかしい」と、稽古している奥の座敷を覗いてみると、二人は見つめあっている。これはまずいと、鳶頭を呼び出し、「伊之助とはきょう限りにしておくれ」と言い、「ここに30両あるよ。これを伊之助に渡しておくれ」と頼む。「できちまった?冗談じゃない!あっしの顔を潰しやがって!半殺しにしてやる!」と興奮する鳶頭に、女将は「伊之助だけが悪いわけじゃない。お若にも落ち度がある。30両を手切れに、お前が間に入って、切れるように言っておくれ」ととりなす。

「そこから先は、先生もご存知で」「若は身体の具合が悪くなったので、わしのところに預かった。ほとぼりが冷めれば、諦めるだろうと思っていたが、ますます恋患いで、気鬱の病になり、痩せ細った。だが、近頃はいいんだ」。そして、初五郎に確認する。「若と伊之助の間は綺麗に切れておるな?重ねて尋ねる。30両はきちんと、伊之助の手に渡っているのか?お前が融通して手元に届いていないということはないか?」「話はそれですか?冗談言っちゃいけない。あっしは金には綺麗な男。ビタ一文だって間違いない!」「もう一度、問う。お若と伊之助は綺麗に切れておるのだな?」「懇々と説教をしました。大丈夫です。とっくに手は切れています!」。その上で、一角が続ける。「その伊之助が毎夜毎夜逢い引きに来ているのが本当だとしたらどうする?」「もう二度と会わないと一冊、交わしているんだ。煮え湯を飲まされているようなものです」「本当だったら、どうする?」「もし、そんなことしていたら、二度と唸れないように、そっ首をひっこ抜いて、二度と三味線が弾けないように、腕を一本折ってきます」「では、首を引っこ抜いて持って来い」「会いに来ているんですか?」「毎夜参っておる。斬れるものは斬れたが、話を聞いてからでも遅くない。それから斬ろうと。妹に合わせる顔がない。若は懐妊している様子だ」。

これを聞いた初五郎、すっかり頭に血が上った。火の玉のごとく駆け出して、根岸から両国の伊之助のところへ。「イノ!イノ!ふざけやがって!今、お前が涼しい顔をして暮らしていられるのもは誰のお蔭だ?」「何か、しくじりましたか?落ち着いて、順を追って、説明してくれませんか?」「ハァ?てめえの方から声を掛けてきたんじゃないか。菅野伊之助、一中節で身を立てたいと考えています。そのためにはご贔屓の力がいります。親方は顔が広い。一生懸命、芸を磨くので、一人前になるまでお引き立てくださいと頭を下げてきた。弟分だと思って、可愛がった。色々世話をしてやった。栄屋の女将さんはよく思っていなかったのに、人間が堅く、大丈夫ですと、太鼓判を押して、芸人の格が上がると思ってよかれとやったことなのに、訳のわからない稽古しやがって!女将さんは苦労人だから、手切れ30両で『これでちゃんとしておくれ。二度と足を向けないでおくれ』と。あのとき、一冊、取っただろう!」。

「なぜ行くんだよ、根岸に!ばれているんだよ!間に俺が入っているから、芸人は斬ろうと思えば、いつでも斬れると許してくれたんだ。お前はいい男、女なんて引く手あまただろう?向こうはたった一人の跡取り娘なんだよ。ふざけやがって!どうするんだ!孕んじゃったんだよ!俺が間に入って困るじゃないか!どうするつもりだ!」。キョトンとする伊之助。「鳶頭、お話がよくわからない。私がお若さんの元へ通っていると?根岸すら存じない。鳶頭に言われて、堅く誓った。一度も会っていませんよ」「しらばっくれるな!根岸で昨夜、会っているんだよ!」「何を言っているんですか。行けるわけないでしょ?昨晩は鳶頭のお伴で川町でご飯を食べて、そのあと、吉原へ行って、角海老へ繰り込んだじゃないですか。それで、今朝、一緒に駕籠に乗って帰ってきたじゃないですか!思い出してください!」。伊之助に指摘され、「そうだよなぁ。昨夜は俺とずっと一緒だったよなぁ。あの剣術使いが変なこと言うから!」。

初五郎は、再び急いで両国から根岸へ。「そっ首を引っこ抜いてきたか?」「昨夜来たのは、伊之助ではありません。人違いです。昨夜、根岸に来られる訳がない。俺と角海老で一緒でした」。しかし、一角も引き下がらない。「お前が嘘をつける人間だとは思わない。わしは吉原に疎い。だが、角海老のような大店が芸人を客に取るのか?」「あっしは特別ですが、伊之助は泊まりません。角海老を出て、茶屋で休む」「茶屋へ戻るふりをして駕籠に乗れば、煙草二、三服しているうちに根岸へ来れるのではないか?逢い引きを楽しんで、何食わぬ顔で、また戻ることはできるのではないか?寝ぼかしを食ったな」。「そういう奴ですか、伊之助は。あの野郎!ペラペラペラペラ!今度はそっ首引っこ抜いてやる!」と、また両国の伊之助のところへ。「イノ!イノ!」「お疑いは晴れましたか?」「お前はよくもイケシャーシャーと!大門くぐって、表へ出れば、吉原と根岸は目と鼻の先。うるせい馬鹿!」。冷静な伊之助は「鳶頭、落ち着いて!思い出して!忘れられたら困ります。昨夜は、茶屋へ下がらず、愚痴を聞いてほしいと、一睡もしないで、ずっと鳶頭と飲み明かしたじゃないですか。昨夜は片時も、鳶頭を離れていませんよ」。「あっ、そうだったな!」と、初五郎またまた根岸へ。「伊之助は片時もあっしの傍を離れちゃいないんです。見間違えでは?」。早トチリの初五郎が往ったり来たりするところを、滑稽味溢れる描写で聴かせるところが一級品だ。

そこで一角は、「伊之助殿は恵比寿講で見ただけ。若が迷うのも仕方ないと思ったが、人違いか。見間違えることはないと思うが、今晩、わしの家に泊って伊之助かどうか、確かめてくれんか?今夜も逢い引きするに違いない。一献、酌み交わそう」と提案した。酒に膳(おでんにネギマなのが可笑しい)を支度して、待ち構える。初五郎は眠くなったので、隣に延べた床で休む。夜が更け、時が経つ。四つの鐘が寛永寺でゴーンとなると、やはり、お若の部屋に人の気配。障子がピシャッ!と閉まる音。覗くと、菅野伊之助。一角が「鳶頭、起きなさい。伊之助が参ったぞ。人影が二つある」と促すと、初五郎も「確かに、間違いなく伊之助です」。座敷に戻る。「昨夜は伊之助でないと誓えるか?二言はないな?その言葉に間違いがあると、大変なことになるぞ。よいな?」と一角は念を押すと、初五郎も「そのときは、腹を斬ります」。一角は火縄銃に弾をこめ、伊之助の胸を撃ち抜いた。ギャッという声とともに、伊之助はクルクルと回転して息絶え、お若は目を回して失神。「死骸を検めなさい」「バカ!命あっての物種だろ。きょう来るバカがあるか!」と、初五郎がほっかむりを取る。「先生!イノじゃない。大きな狸です」「やはり、そうか。そのようなことがあるかと退治した。伊之助でなくてめでたいな。お若があまりに恋い慕うので、スケベ狸がつけこんで、たぶらかしに参ったのだ」「ふざけるな!お前のお蔭で、行ったり来たり」。お若は狸の双子を産み落とし、弔いをして、塚を作った。「根岸御行の松因果塚の由来でした」でサゲた。一昨年のアナザーワールドでの口演の構成を大胆に変えて、お若と伊之助の出会いから別れまでのいきさつを初五郎に語らせる演出に変えたのが功を奏した。滑稽あり、怪談あり、そして人情ありの素敵な高座だった。