【浪曲映画祭】「男の勝負 仁王の刺青」(1967年・東映)村田英雄が浪曲師として、歌手として、映画俳優として
ユーロライブで「浪曲映画祭 情念の美学」二日目を観ました。(2021・06・26)
「男の勝負 仁王の刺青」(1967年、鈴木則文監督)
村田英雄が主役として浪曲師を演じる東映任侠映画の王道である。きのう、「日本侠客伝 雷門の決斗」でも書いたが、耐えに耐え、最後に怒りを爆発させる東映任侠映画のパターンはここでもいかんなく発揮されている。
村田英雄は戦後の活躍はよく知られているが、実は戦前から浪曲と映画に関わっている、と映画評論家の山根貞男さんの解説によって知った。昭和4年に浪曲師の父、曲師の母の間に生まれた。5歳で酒井雲坊の名で浪曲映画「佐渡情話」に出演。この映画は爆発的ヒットとなった。10歳でその少年浪曲師の名はよく知られ、雲坊一座の座長として九州一円を巡業していたという。
終戦後、村田英雄の名で浪曲界に復帰。古賀政男が「無法松の一生」に目をつけて、歌謡曲を作り、歌手デビューを果たす。1936年に尾崎士郎原作「人生劇場」を日活が映画化した際に作られた歌謡曲「人生劇場」を村田英雄も歌ってヒットし、それが東映任侠映画路線を作った「人生劇場 飛車角」へと繋がっていく。
村田英雄も、浪曲師から歌手へ、そして映画俳優へと活躍の場を広げていったことがよくわかる。この「男の勝負」シリーズもハマり役で、次々と人気俳優と共演、藤純子を恋人役にしてしまうなんて羨ましい。村田は身長が160センチしかなかったそうだが、顔が大きいので、その迫力で見せちゃうのはすごい、と山根先生はおっしゃっていた。まさに、映画スター。
あらすじはこうだ。
浪曲師菊池政五郎(村田英雄)は、大正2年、九州で熱演中に野次った客と喧嘩をして、師匠東家雲太夫から破門された。慕ってついてきたお袖(藤純子)と共に大阪に出てきた政五郎。しかし、破門回状がついてまわり、どの舞台にも出られなかった。
そして、第一次大戦が始まる頃、彼は浪曲師の夢を捨て、侠客になった。政五郎が身を預けた山根組は、清掃事業の利権をめぐって滝井組や石津、浦辺組と敵対していたが、たまたま、兄貴分源吉が滝井組の縄張りを荒した責任を負って、政五郎は滝井伊三郎(天知茂)のリンチを受ける破目になった。
しかし、政五郎の意地の強さに伊三郎は感心してしまった。そのことがあってから伊三郎は、政五郎が大正7年の米騒動で貧乏人に味方して獄に下った時、なにかと山根組に尽してくれたのだった。
2年後、出所した政五郎は伊三郎と義兄弟の盃を交した。政五郎を迎えた山根組は、全国の一流の浪曲師を集めて、彼の二代目襲名の花興行をやることになった。しかしそれを喜ばない浦辺、石津組は手を結んで妨害に出るが、何とか政五郎は無事襲名をすます。が、花興行の前日、長い間の過労からお袖が死んだ。
時も時、館主の倉本が浦辺の命令で浪曲師の出演を断ってきた。しかも政五郎の花興行の成功を願う伊三郎が単身浦辺組に交渉にいったが、無惨な死体となって帰ってきた。もうこれまでと、政五郎は、竜次郎(鶴田浩二)、力石鉄夫(北島三郎)を連れ、浦辺組に乗り込んだ。すさまじい立回りの末、政五郎は石津と浦辺を倒すと、ひとり自首して出たのであった。