【談春アナザーワールドⅨ】「高田馬場」

立川談春師匠が2010年1月にスタートして、18回にわたっておこなった「談春アナザーワールド」の当時の記録を残していきたい。きょうは2011年5月の第9回だ。

「徹子の部屋」のプロデューサーと称する人物から、事務所に出演オファーの電話があったそうだ。でも、よく聞いてみると、変。「収録はいつですか?」と尋ねると、「独演会の前にラーメンを作ってあげてください」と意味不明の返事。要はいたずら電話だったわけだ。「これが『いい旅夢気分』でなくて良かったですよ」とする師匠が可笑しい。「土日は無理ですよね?局の人間が理解してくれないんですよ」と、ディレクターが言うのだそうだ。あれは誰かと一緒に行かなくちゃいけない。それに加えて、温泉に入らなきゃいけない。「私は着やせするタイプですから。以前、楽屋でくつろいでいたら、『海岸だったら、撃たれるよ。トドと間違えられるよ』と言われた。そういうことを言うのは、志らくです」。

一席目の「岸柳島」を終えて、恒例の主催者の感想。「あんな侍って、いるんですか?」「旗本の次男坊、三男坊にいるんだよ。そういう鬱屈した奴が」「ヤクザですか?『夢金』の方がいいですねぇ」「あれは冬の噺だ」「ああいうチンピラやらせると、上手いよねぇ」「一席目で脅して、二席目で泣かせる。俺は借金取りか?」。「岸柳島」が前座噺だった時代があるそうだ。それを談志が変えた。談志は正蔵から習ったそうだ。稲荷町。志ん朝師匠も正蔵に習いに行った。志ん生は自分が稽古に向かないことをわかっていて、息子を稲荷町に行かせたのだろう。正蔵師匠はパーツに分けて丁寧に教えてくれる。それを、一回で覚えちゃう記憶力のある談志は「チョビチョビは嫌だ。一遍にやってくれません?」と言ったそうだ。

談春と花緑は「移しっこ」と言って、ネタを交換する。花緑に「夢金」「紺屋高尾」「岸柳島」を教えた。逆に花緑からは「唖の釣り」と「不動坊」を教わった。「昇太兄さんにも教えましたよ!文七元結、富久、明烏。要はルーツが必要ということ。誰から教わった?か、が言えること。家元は『円生のテープでいい』と言う。泥棒ですね。習った記憶がほとんど、ない。まぁ、『力士の春』も勝手に覚えたんですけどね」。

談春師匠の父親は北海道出身で、祖父は漁師だった。父親が5歳のときに死んだそうだ。名前が鬼太郎!その名付け親は?と思ったら、佐々木鬼之丞。ドサ芝居の役者だったそうだ。母親が前座時代に家元に挨拶に来た。「俺の落語を聴いてもらえ」と言われ、母親は談志の「らくだ」を聴いた。感動して、終演後に家元に言った言葉が「師匠!素晴らしかった!キリン!」。家元は「志ん生師匠にセンスが似ているね」と言ったとか。その母親・妙子は中学時代に肥溜めに落ちて、同級生からいじめられた。以来、中学には行かなかった。「せめて、卒業証書だけは受け取ってください」と言われ、父親が学校に行った。この父親(師匠の祖父だが)は働いている姿を見たことがない。兄が博徒。河岸の腐った魚を霞ヶ浦で売るというヤミ屋をやっていたらしい。先祖はお神楽をやっていた、芸人崩れ。早い話が父方も母方もルーツは売れない芸人だったということ。「だから、今、私が売れるようになったのは不思議じゃないんです。運命なんです」。そんな話題から、叔父さんがテキヤで、金魚すくいでは誰にも負けなかったと繋ぎ、二席目の「高田馬場」へと入った。

立川談春「高田馬場」
舞台は浅草観音様の境内。21、2歳の蟇の油売りの男と、その口上の前座役の鎖鎌の武芸を見せる姉。その口上の鮮やかさは、さすが談春師匠だ。ここにひとつの見所があると言って良いだろう。そこに現れた60過ぎの老武士。二十年前の古傷を見せての懺悔話。福島藩の藩士だったが、木村惣右衛門の見目麗しき妻に心を奪われ、夫の留守に手籠めになさんとしたところを夫が帰宅し、不始末をとがめられた。逆上のあまり抜き打ちに、その夫を斬り捨て、逃げようとしたが、妻が乳飲み児を抱えて追ってくる。妻は懐剣を投げ打った。それが背中に深く斬り込み、今もなお心ともども痛みを覚える・・・。「二十年以前、福島の藩?して、そこもとの名は?」「岩淵伝内と申す」「やぁ、珍しや、岩淵伝内!我こそは木村惣右衛門の息子、惣之助と申す!いざ、尋常に勝負、勝負!」。そう、あの時、母に抱かれていた乳飲み児は、この蟇の油売りだったのだ。父の仇、後ろ傷の男を捜そうと、往来激しき観音境内で大道商いに勤しんでいたというわけだ。この様子を見ていた観衆は、惣之助に声援を送る。岩淵伝内、はやこれまでと観念の態。が、主命を帯びて戻る途中ゆえ、その役目を果たすまで命を預けてほしいと懇願する。「明日の巳の刻に高田馬場にてお出会い申そう。武士に二言はござらん」。

翌日、高田馬場。チャンチャンバラバラがはじまると、期待した連中が集まって来た。しかし、果たし合いは、一向にはじまる気配がない。皆、茶屋で一杯やりながら、来るべき真剣勝負に胸をときめかせるのだが・・・。「まだかい?もう午の刻?おかしいな。やっぱり、爺、逃げたのか。でも、蟇の油売りの姿も見えないぞ」。茶屋の片隅で一人で酒を飲む老人がいる。空の徳利を垣根のように並べて、相当な酒豪のよう。あの仇の武士、岩淵伝内によく似ている。職人が話しかける。「たいそうご機嫌ですね。いいご身分ですねぇ」「お前の仕事は何だ?」「大工です」「日にどれくらい稼ぐ?」「日に三文目くらいですかねぇ」「月に二両にも足らん。よせよせ」「あなたのお仕事は?」「わしの仕事は仇討ち屋だ」「え!?やっぱり、きのうの?」「そうだ。きょうはやめだ」「相手が許さないでしょう?」「アレは倅と娘だ。天気がいいから洗濯しておる」「こんなに人を集めておいて、なんて芝居をするんだ!」「茶屋が儲かる。二割貰って、楽に暮らしておるのだ」で、サゲ。

この「高田馬場」、正式な江戸弁では「たかたのばば」と濁らないのだというと断って、途中、十代目文治師匠が言葉遣いに煩かったという話題になる。毎回、高田馬場を通過するたびに文句を言うので、池袋から新宿への移動は弟子が山手線から埼京線に変えた。ひばりが丘に住む文治師匠は小言が喧しくて、逆に西武線で「ラッキーおじさん」と中高生の間で評判になった。そんな逸話を挿入したりして、噺を膨らませていたが、冒頭の蟇の油売りの口上の見事さ以外は極めて単純明快な噺。志ん朝師匠の口演をCDで聴いたが、あまり入れごとはせず、寄席の小品として、あっさり演じるのが良い噺だと思った。