【談春アナザーワールドⅣ】「お若伊之助」

立川談春師匠が2010年1月にスタートして、18回にわたっておこなった「談春アナザーワールド」の当時の記録を残していきたい。きょうは4月の第4回だ。

師匠も44歳になり、「経験に自分が惑わされるようになった」と。厚生年金会館ホールでの昼夜2回公演を終えて、身体にストレスが相当たまっているという。「2000人入れても赤字が出るので、2回公演にしたんです」。何しろ、高座の背景に配した巨大スクリーンに映像を映し出す費用だけでも馬鹿にならない。その上、マクラ代わりにと製作したビデオの編集代とかスタジオ代がベラボウに高い。なるほど、そんな裏事情があったのか。僕は単純にチケットが即完売になってしまい、それでは倍儲けようと昼公演を追加したのだとばかり思っていたのだが。

続いて、4月13日の紀伊國屋ホールでの「立川流落語会」で家元が復活した話題。「志らくと一緒は嫌なんだよ。でも、『俺の分身を2つ出す』と口説かれたら、出ますよ」。ここで、「あの落語会に行った人!」と観客に挙手させると、意外なほど多くの人が手を挙げていた。20人はいただろうか。ヤフオクで10万円近い値がついたというプレミアムチケット。僕は抽選に当たったのだけれど、家元に対する思い入れがそれほど強い人ではないので、昔から家元を追いかけ続けている人にドキュメントとして見てもらう方が良いだろうと判断し、マイミクさんにお譲りした。談春師匠はこの日の演目と同じ「庖丁」を演ったのだが、家元は志らく師匠に「こいつ、できんのか?」と聞いたという。そして、暫く間があって、「あぁ、こいつのは、そこそこ聴かせるんだった」と呟いたそうだ。そう、この日も素晴らしい「庖丁」を聴くことができた。

「お若伊之助」も、ストーリーテラーとしての手腕が冴えわたり、とくに鳶頭が両国と根岸を何回も往復する可笑しさを実にコミカルに描いて、観衆の心を噺の世界に引き込んでいった。僕は志ん朝師匠の口演は残念なことにCDでしか聴いたことがないが、志ん輔師匠がこれを受け継ぎ、その口演は生で何回か聴いている。志ん輔師匠は結末に一工夫を加え、「それから3ヵ月後には、お若の部屋から一中節の音が聞こえてきた、と言います」とサゲて、お若と伊之助が一緒になれたことを暗示する表現で終えている。談春師匠は、お若に狸の双子を産ませて、「根岸御行の松因果塚の由来でした」でサゲた。また、それもよし、である。

立川談春「お若伊之助」
日本橋殼町の生薬屋栄屋は主人が亡くなったが、女将さんが切り盛りをして、大層繁盛した。その栄屋の一人娘、お若(18)は、育ちが良くて、品があって、いい女。母親は目の中に入れても痛くないという可愛がりようだ。そのお若が、その頃、江戸で流行っていた一中節を習いたいという。店が忙しいので、お若が習いに行くのに、婆やを出すことができない。いい師匠があったら、家に通ってもらおうということになった。出入りの鳶頭、初五郎に相談すると、「それなら、願ったり叶ったり。菅野伊之助という元は侍の24になる男がいます。芸の修業をよくして、見所のある、了見のいい男です」と紹介した。「婿入り前に妙な間違いがあったら」と不安に思う母親に、初五郎は「極堅い男です。大丈夫です。出入りが叶えば、伊之助の格も上がる。芸は折り紙つきですから」と太鼓判を押す。「では、お願いしようか」となった。

しかし、それは男と女。ましてや伊之助はハッとするような美男子。男っぷりがいい。お若がすかっり惚れこんでしまい、二人はいい仲になってしまった。女将が「近頃、様子がおかしい」と、稽古している奥の座敷を覗いてみると、二人は見つめあっている。これはまずいと、鳶頭を呼び出し、「伊之助とはきょう限りにしておくれ」と言い渡し、「ここに25両あるよ。これを伊之助に渡しておくれ」と頼む。「できちまった?冗談じゃない!あっしの顔を潰しやがって!半殺しにしてやる!」と興奮する鳶頭に、女将は「伊之助だけが悪いわけじゃない。お若も悪いんだ。25両を手切れに、お前が間に入って、切れるように言っておくれ」ととりなす。

鳶頭は伊之助に懇々と意見をした。伊之助も「申し訳ありません。もう二度と会いません」と謝る。「具合が悪いから来れなくなった」と聞かされ、引き裂かれたことを知らないお若は落胆し、「会いたい。伊之助さんに、会いたい」と繰り返す。このままにしておくのは良くないというので、お若は根岸に剣術道場を構える叔父さんの長尾一角に預けられた。男に惚れて、会えなくなった娘の気持ちはどうにもできない。寂しい侘び住まいの上に、毎日剣術の指南をしている質実剛健で武骨な叔父さんと一緒の暮しには耐えられない。お若は恋患いで寝込んでしまう。

頃は弥生。昼に雨が降った後、晴れあがった夕暮れ時、庭の桜を眺めては、うつむいているお若と風が吹き散る花びらは一服の絵のようだ。「この桜を見て思い出すのは日本橋のこと。伊之助さんは一本も便りをくれない。所詮、芸人、他に好きな女でもできたのかしら?もう伊之助に会えないのなら、いっそ川にでも飛び込んで死んでしまおうかしら。イノさんに会いたい」。すると、垣根の外に頬かむりをした人の影。どこかで見たことのある男の姿。何と、恋しい伊之助がいるではないか!「イノさん!会いたかった」。切り戸を開けて、男を中に入れる。万感を込めて手に手を取り合う二人。以来、伊之助は毎夜毎夜、お若の部屋を訪ね、逢い引きを重ねるようになった。

そのうち、お若のお腹がポコランと膨れてきた。それに気づいた長尾一角は「これはいかん。ご懐妊している様子。油断はならん」。一角は息を殺して夜を待ち、お若の部屋に人影が二つあることを見とどめた。間違いなく、これは菅野伊之助。このまま斬ってしまおうと思ったが、思いとどまり、鳶頭の初五郎を呼びにやる。「菅野伊之助を紹介したのは、お前だな」「あっしも悪いつもりじゃなかったんです。もう終わったこと。勘弁してください」「25両はきちんと、伊之助の手に渡っているのか?」「はい」「誠か?お前が融通して手元に届いていないということはないか?」「あっしは金には綺麗な男。ネコババするわけがない!」「改めて聞く。お若と伊之助は切れておるのだな?」「懇々と説教をしました。大丈夫です。とっくに手は切れています!」。その上で、一角が続ける。「その伊之助が毎夜毎夜逢い引きに来ていたら、どうする?」「もし、そんなことしていたら、足でも腕でも折って、首をひっこ抜きます」「では、引っこ抜いて持って来い」「会いに来ているんですか?」「仲良く話をしておる。昨夜は斬らなかったが。お若は伊之助の種を宿しておる。妹の手前、申し開きができん」。

これを聞いた初五郎、すっかり頭に血が上った。火の玉のごとく駆け出して、根岸から両国の伊之助のところへ。「イノ!イノ!ふざけやがって!何なんだ?どうして、俺に仇するんだ!お前は芸を磨くので、一人前になるまでお引き立てくださいと頭を下げてきた。色々世話をしてやった。そうしたら、栄屋のお嬢様とできやがって。25両をを渡して切れろと言ったら、お前は涙を流して『了見違いをしていました。二度と会いません』と約束をしたろう!なぜ行くんだよ、根岸に!お前は芸人、女なんて引く手あまただろう?孕んじゃったんだよ。どうするんだよ!どうやって話をつけるんだ!心配ばかり、かけるんだ!」。キョトンとする伊之助。「一度も会っていませんよ」「しらばっくれるな!」「何を言っているんですか。他の日ならともかく、昨晩は根岸なんかに行けませんよ。鳶頭のお供で遊飯を食べて、そのあと、吉原へ行って、角海老へ繰り込んだじゃないですか。思い出してください!」。伊之助に指摘され、「そうだよなぁ。昨夜は俺とずっと一緒だったよなぁ。25両ネコババ扱いしやがって!あの剣術使いめ!」。

初五郎は、再び急いで両国から根岸へ。「そっ首を引っこ抜いてきたか?」「昨夜来たのは、伊之助ではありません。人違いです。昨夜、来られる訳がない。俺と角海老で一緒でした」。しかし、一角も引き下がらない。「角海老が芸人を客にするのか?お前が眠っている間に伊之助が駕籠で根岸へ来て、逢い引きを楽しんで、また戻ることはできるのではないか?」。「寝ぼかしだ!」「馬鹿者!」「今度はそっ首引っこ抜いてやる!」と、また両国の伊之助のところへ。「イノ!イノ!」「罪は晴れましたか?」「お前はよくもイケシャーシャーと!お前、寝こかしくわせやがったな!」。冷静な伊之助は「忘れられたら困ります。昨夜は、茶屋へ下がらず、話を聞いてほしいと、一睡もしないで、ずっと鳶頭と飲み明かしたじゃないですか。昨夜は片時も、鳶頭を離れていませんよ」。「あっ、そうだったな!」と、初五郎またまた根岸へ。「伊之助は片時もあっしの傍を離れちゃいないんです。見間違えでは?」。早トチリの初五郎が往ったり来たりするところを、滑稽味溢れる描写で聴かせるところが一級品だ。

そこで一角は、「見間違えることはないと思うが、今晩、わしの家に泊ってくださらぬか?今夜も逢い引きするに違いない。二人で確かめよう」と提案した。酒に膳を支度して、待ち構える。居眠りをコックリとして、夜が更け、時が経つ。四つの鐘が寛永寺でゴーンとなると、やはり、お若の部屋に人の気配。一角が「鳶頭、起きなさい。伊之助が参ったぞ。人影が二つある」と促すと、初五郎も「確かに、伊之助です。間違いありません。今夜は伊之助だ」。「その台詞に間違いがあると、取り返しがつかなくなるぞ。よいな?」と一角は一言を言って、鉄砲に弾をこめ、伊之助の胸を撃ち抜いた。ギャッという声とともに、伊之助は息絶え、お若は失神。「死骸を確かめなさい」「先生!伊之助じゃない。大きな狸だ」「伊之助でなくてめでたいな」「お若の恋慕があまりに強いので、スケベ狸がたぶらかしに参ったのだ」「この野郎!」。お若は狸の双子を産み落とし、弔いをして、塚を作った。「根岸御行の松因果塚の由来でした」でサゲた。滑稽あり、怪談あり、そして人情ありの素敵な高座だった。