【プロフェッショナル 藤子・F・不二雄】「僕は、のび太そのものだった」いつも心に夢と冒険心を(下)

NHK総合の録画で「プロフェッショナル ザ・レジェンド 藤子・F・不二雄 僕は、のび太そのものだった」を観ました。(2013年10月21日放送)

きのうのつづき

今、描くべき漫画は何か?苦悩している藤本に声をかけたのが、ビックコミック編集部の小西湧之助だった。新たな大人向け漫画雑誌に描いてみないかという誘いである。そのときの心境を小西が語る。

描きたいものを描いてよ、と言いました。モノ書きというのは、皆ある意味、エゴイストだし、だってそうじゃなきゃ、モノ書けないでしょう。ナルシズムに近い自分に対する自己依存がなかったら、モノは書けないでしょう。

藤本は、挑戦しようと思った。

昭和59年の講演から。

やはり殻を破る努力が必要になってくるんですけど、「オバQ」とかああいうものばかりやってて、それの枠から出るのは怖くてしょうがないんです。今までこういう描き方でやってきて、受けてたんだから、それを踏み外すということは受けなくなるということで、大変恐ろしいことなんです。

「ミノタウロスの皿」という短編を描いた。これまでの藤本作品とは全く異なる漫画で、人間が牛に家畜として飼われる里を舞台に常識の危うさを描いた作品だった。

小西が振り返る。

ゾクッとしました。俺が想像している以上に、いわゆる価値観の差を突き付けてくる怖さを感じましたね。すぐ、もう彼に「凄いよ!これ!」って電話しましたよ。興奮して、僕も。

昭和59年の講演から。

原稿を渡した夜、小西さんから電話が入りまして、とっても良かったから、今度似たようなものを2,3本描いてもらうと。自分でも気がつかなかった可能性を一つ切り拓いてもらったということ。これは、もうほんと、とっても嬉しかったです。

大好きなSFをテーマに思うままに描いた名作。一つの流儀が芽生えていた。「自分が楽しみ、読者が楽しむ」。

一方で、小学生向け学年誌に新作を連載することが決まった。浮かんできたテーマは、独りぼっちで空想に耽っていた少年時代。あの思いを漫画にできないか。ドジで弱虫な少年、のび太。それを助ける相棒がなかなか浮かばず、締め切りが迫った。そんなとき、外で夜に騒いでいた猫と、娘の持っていたポロンちゃんという丸みを帯びた人形が頭で合体した。猫の形をしたロボット、ドラえもんの誕生である。

平成4年のNHKの番組から

「ドラえもん」にいろんな道具がでてきて、いろんな夢を叶えてくれる。その夢のベースになっているのは、僕自身の願望なんですね。のび太は非常に濃厚に僕がモデルになっています。

昭和45年、「ドラえもん」の連載がスタートした。

アシスタントだった漫画家のえびはら武司は語る。

藤本先生は「ドラえもん」をとても愛していました。ペンを太くグッと開いてグーッて描いてたから、こんなことしないでマジックで描けばすぐに終わるのにと思ったけど、やっぱりそういうのをペンで一生懸命入れたいっていう愛情なのかなって思う時もありましたね。原稿は丁寧だったと思いますね。一生懸命描いてたっていう、毎回ね。

「ドラえもん」の連載4年目、打ち切りが議論された。アニメの放送が終了したからだ。藤本は最終回を描く。ドラえもんが未来に帰らなければいけないと決まったことで、独り立ちを決意したのび太が、宿敵のジャイアンに一人で立ち向かっていく。感動的なラストだ。

と、同時に「ドラえもん」の単行本が発売された。第一巻に末尾に藤本はこう書いた。

ぼくはとても楽しく“ドラえもん”をかきました。みなさんにも楽しく読んでいただけたらうれしく思います。

単行本は1年で100万部を突破する売り上げに。藤本の思いが子どもたちの心に届いたのだ。そして、「ドラえもん」連載は継続になり、最終回は幻となった。

藤本の手記に、子どもに向けて描く意味が記されている。

子供は冒険を好みます。この止むに止まれぬ衝動、抑えるには抑えきれないエネルギーが、思えば人類社会を発展させたのかもしれません。子どもは成長するにつけ、彼らを取り巻く日常性の中に取り込まれ、順応していくわけですから。夢と冒険に憧れる心は失ってほしくないと思います。

平成8年秋。病気がちだった藤本は自宅の机で倒れて亡くなった。享年62。新作映画の漫画を執筆中だったという。

プロフェッショナルとは?藤本が遺した手記から抜粋する。

漫画家はベテランになると、コツがわかってきます。このときが一番の危機なののです。自戒の意味をこめて言うのですが、漫画は一作一作、初心にかえって、苦しんだり、悩んだりしながら描くものです。お互い、頑張りましょう。

いつも心に夢と冒険を。ありがとうございます、藤子・F・不二雄先生。