【プロフェッショナル 藤子・F・不二雄】「僕は、のび太そのものだった」いつも心に夢と冒険心を(中)

NHK総合の録画で「プロフェッショナル ザ・レジェンド 藤子・F・不二雄 僕は、のび太そのものだった」を観ました。(2013年10月21日放送)

きのうのつづき

藤本弘は昭和8年、富山県高岡市の生まれ。少年時代に抱いた「空想が僕の救いだった」という思いを生涯、忘れることはなかった。病弱だった。手記に幼稚園時代のことが書かれている。

クラスで2番目の弱虫がいたんですが、その子が鬼ごっこの鬼になると、僕だけを追い掛けるんです。僕はそのくらいのいじめられっ子だった。

学校に居場所がない。SFや童話の世界に入りこみ、その世界を絵に描いて遊んでいるうちに、一人の友達ができた。後年、コンビを組む、安孫子である。2人が町の本屋で偶然見つけた1冊の漫画「新宝島」が彼らを虜にする。描いたのは、手塚治虫、弱冠19歳。映画のようなカット割り、骨太のストーリー、見たことのない斬新な漫画だった。二人は奪うようにして、読んだ。

NHKの番組(昭和60年)から

もしこの「新宝島」との出会いがなかったら、僕らは単に一時期の漫画好きの少年であったというだけで、普通に生活に戻っていたと思いますね。そういう意味では、僕らのバイブルのような本ですね、これは。

居ても立っても居られず、自分の描いた絵を手塚に送ると、何と本人から返事が来た。「しっかりとしたタッチで、将来が楽しみです。頑張ってくれたまえ」。二人で手製の雑誌を作りはじめた。漫画、読み物などを二人で書き上げた。近所の子供達の間で大評判になり、何度も続編を作ることになった。子供達をワクワクさせる漫画の力。まもなく、藤本は決意を固める。

高校を卒業し、新聞社に就職していた我孫子に「漫画家になろう!」と声をかけ、手塚を頼って上京。のちに、漫画家の聖地と呼ばれるアパート、トキワ荘に住む。全国から集まった漫画家の卵が同じ屋根の下で青春時代を過ごした。生涯の友となる赤塚不二夫や石ノ森章太郎らと腕を磨いた。

NHKラジオ(昭和59年)から

皆、兎に角お金のなかったころですけどね。不思議と辛かったという記憶はそうないですね。なんか楽しかったですね。落ち込んでいるときも、一歩廊下に出れば仲間がたくさんいる。やっぱり心強かったですね。

藤本は漫画家として才能を開花しはじめる。冒険や空想をテーマにした少年マンガを数多く手がけ、人気雑誌に連載ももてるようになった。藤本には一つの思いがあった。引きこもりがちだった少年時代。自分を救ってくれたのは、空想の世界。あの心の昂ぶりを子どもたちに伝えたい。

上京して10年後、ドタバタギャグ漫画「おばけのQ太郎」がヒット。アニメ化もされ、社会現象にもなり、人気漫画家の仲間入りを果たす。しかし、本当の闘いは、その先にあった。深い悩みを抱えるようになる。

昭和59年の講演から。

「オバQ」ブームが一段落しまして、「パーマン」「ウメ星デンカ」「21エモン」と似たようなギャグ路線をずっとやってたんですけど、これはやはり尻すぼみになってしまいまして、壁にぶち当たったようになって、こちらの自信もなくなり、非常に行き詰ったことがありました。

自分の漫画は子どもたちをワクワクさせているだろうか?藤本は当時連載を担当していた「少年サンデー」に手紙を書いた。当時の編集長の高柳義也が語がその手紙を見せてくれた。

私なりに努力はしてきたつもりです。随分、つくりもののアイデアも出してきたし、精一杯背伸びもしてきました。しかし、私にも児童マンガについては信念めいた物があり、これ以上はどうにも動かし難い部分が残ります。残された道はただ一つ、「少年サンデー」の執筆陣からはずしてもらうしかほかになさそうです。一度戦線を縮小して、出直します。

人気マンガ誌を離れ、自分を見つめ直す。苦渋の決断だった。

高柳は語る。

「オバQ」で大当たりして、テレビ界も、広告宣伝も、スポンサー関係も、(編集部に対して)藤本先生にこういうものを描かせたらどうかっていうようなことが、ワンワン来るようになった。口では言えなかったけど、妥協して作ってたっていう気があったのかもしれんね。

つづく