【プロフェッショナル 藤子・F・不二雄】「僕は、のび太そのものだった」いつも心に夢と冒険心を(上)

NHK総合の録画で「プロフェッショナル ザ・レジェンド 藤子・F・不二雄 僕は、のび太そのものだった」を観ました。(2013年10月21日放送)

藤子・F・不二雄さんが亡くなったのが、平成8年(1996年)だから、もう四半世紀が経つのか、と感慨に耽る。僕は幼少期に「おばQ」、小学校に上がると、「小学〇年生」に掲載された「ドラえもん」で育った。「おばけのQ太郎」は初期のアニメの記憶もあるが、第二期のアニメの記憶が濃い。「ドラえもん」はアニメよりも連載や単行本で読んだ記憶が強い。兎に角、おばQやドラえもんを真似して描いたりするだけでなく、漫画家に憧れて、小学時代に自分で独自のキャラクターを作って「ストーリーのある漫画のようなもの」を描いていたのは、明らかに藤子不二雄先生の影響である。62歳で早逝されてしまったのは残念だったが、昭和に青春時代を過ごした人間としては神様のような存在だった。この番組は、そんな藤子・F・不二雄先生の漫画論として、大変興味深く観た。その記録を残したい。(以下、敬称略)

本名、藤本弘。朝は早起きして、子供と一緒にコーヒーとパンとサラダで朝食を摂り、家族を何より大事にする男だった。毎月10本以上の締め切りを抱えながらも、規則正しい生活を送るのを信条にしていた。朝9時に通勤電車に乗って、新宿の仕事場に向かう。電車の中はアイデアを生み出す格好の時間。前の晩から練り始めたストーリーを通勤しながらまとめあげた。およそ、20分で新宿に到着すると、すぐには仕事場に行かない。必ず立ち寄る場所があった。

NHKラジオ(昭和59年)から

僕はあのね、あきこち喫茶店に寄りまして、アイデアを…アイデアは時間がかかりますから、喫茶店などであっちゃこっちゃ寄り道しながらスタジオに向かうわけですね。

漫画の設計図であるネームを一気に仕上げる。ストーリーの展開を考え、どんな絵でそれを表現するかを決める。完成原稿を決める漫画の生命線だ。通常は数日かかるこの作業を、「ドラえもん」の場合、藤本はわずか1時間で仕上げていたという。そして、仕事場に到着すると、原稿の下書きを始める。一日一本。驚異的なペースである。

当時アシスタントだったたかや健二が振り返る。

机に座るともう一心不乱に描き出すというか、兎に角凄い集中力です。だから、僕らがこっちで騒いでいても何も気にしないし。先生は自分のペースっていうのが、ローテーションが決まってたんだと思うんです。それがあるからアイデアも一日一本だったり、次から次へと出てくるんじゃないかなと。今になって思いますけどね。

最盛期の藤本は「エスパー魔美」、SF漫画の連載と平行して、8つの雑誌で違うストーリーの「ドラえもん」を描き分けていた。なぜ、そのようなことができたのか。それは、遺品に秘密が隠されている。自宅の書斎に遺されていた膨大な資料。落語のテープから、世界のミステリーまで、実に1万点以上。藤本はこれらすべてに目を通していた。この数こそ、発想の原点だと語る。

昭和59年の講演のテープから

漫画っていうものを分解してみますと、結局は小さな断片の寄せ集めなんでありますね。本を読んだり、テレビや映画を観たり、新聞を読んだり、人と話したり見たり聞いたり、絶えずピッピと感性に訴えるものがあって、あれが使えそう、これが使えそうと、捨てたり、組み合わせ直したり、そういう作業の結果、1つのアイデアがまとまっていくんです。なるべく面白い断片を数多く持っていた方が「価値」ということになるわけです。

沢山の面白い断片を持つ。それをどのように紡ぎ出していたのか。藤本は物語を作るのに、アイデアノートを持っていた。断片をどう膨らませるか。そこから探った跡がうかがえる。特にこだわっていたのは身近にあることやちょっとした願望を取り入れることだった。

NHKラジオ(昭和59年)から、「アンキパン」について

昔、子供の頃はテストの前夜などはなんでこう覚えられないんだろうと。受験勉強でも辞書なんかを単語を覚えるごとに破いて食っちゃう人なんていますね。そういう2つが結びついた時にね、アンキパンというパンがつくられるわけです。そういう風にして、現実に身近にある、ああしたい、こうしたい、という願望と、前からの知識とか断片をこう組み合わせて、道具というのが出来てくるわけですね。

「どこでもドア」については、コンビを組んでいた我孫子素雄(藤子不二雄A)が教えてくれた。

イギリスの作家でジョン・バッカンという人の書いた「魔法のつえ」というね、これは少年が魔法使いのおじさんにステッキをもらうんですよ。そのステッキを回すとね、自分が思いもかけないところへ飛んで行くという。それから何十年後には「ドラえもん」で「どこでもドア」は確かに「魔法のつえ」のそのイメージを憶えていて、それを使ったと言ってましたけど。

僕はその時、面白がっても、瞬間に忘れてね、全然あとに残らないんですけど、彼はいろんなことを自分の中で整理して蓄えていたと思うんですね。そういう点では本当に感心しますよね。

少年時代の空想を大人になっても鮮明に記憶していた藤本。そこに膨大なアイデアの断片を加えることで、圧倒的な発想を生み出していた。

売れっ子漫画家になっても、慎ましい生活を貫いた藤本。大切にしていた信念がある。漫画家は、普通の人であれ。

昭和59年の講演から

人気漫画をどうやって描いたらいいのか。そんなことが一言で言えたら、苦労しないのですが、たった一つ言えるのは普通の人であるべきだ、ということです。身体全体から滲み出た結果としての作品が、読者の求めるものに合致したときに、それが人気漫画となるわけでありまして。つまり、大勢の人が喜ぶということは、共感を持つ部分が、その漫画家と読者との間に沢山あったということです。だから、まず最初に普通の人であれというのは、そういう意味なんです。

 

つづく