【プロフェッショナル 高倉健スペシャル】生き方が芝居に出る(中)
NHK総合の録画で「プロフェッショナル 仕事の流儀 高倉健」を観ました。(2012年9月8日放送)
つづき
高倉が大切にしている本がある。「男としての人生 山本周五郎のヒーローたち」(グラフ社)。そこに掲載された「樅ノ木は残った」の一文はとりわけ好きだという。
火を放たれたら手で揉み消そう。石を投げられたら軀で受けよう。斬られたら傷の手当てをするだけ――どんな場合にもかれらの挑戦に応じてはならない。ある限りの力で耐え忍び耐え抜くのだ。
実在でも架空でも人の生き方から力をもらい、糧にする。高倉はそうやって自分を奮い立たせてきた。
俳優として50年以上を過ごしてきた高倉。幾多の役柄に思いを重ねて生きてきた。しかし、そのかげで、俳優という仕事に深い葛藤を抱えてきた。一つの作品を終えるたび、人前から姿を消す。その期間はときに数年におよぶ。
高倉が生まれたのは福岡県中間市。荒々しい気風が流れる炭坑の町だ。本名・小田剛一。昭和6年生まれ。父は炭坑夫のまとめ役をしており、家庭は裕福だった。高倉は貿易商になるのが夢で、東京の大学へ進学し卒業した。しかし、そこで躓く。大手企業のサラリーマンにはなりたくない。悩みながら、芸能事務所のマネージャーの就職を志願しに行った。すると、「君は俳優になった方がいい」と誘われた。食べるために、やるしかなかった。
高倉が語る。
カメラテストでドーランを塗られたとき、涙が出たよ。今は平気な顔して何かやってもらっているけどね。何か自分がものすごいお金のために身を落としたって気がしてね。親父は帰ってこなくていいって言ったきり。それはやっぱり恥ずかしいって親が思ったということでしょう。筑豊地帯一帯、川筋のそれが気風だったんだよね。とても恥ずかしいものに大学まで出したのに、なりやがったという。たぶん、聞いたことはないけどね。だからそういう恥ずかしいものになったという感じだったんですよね。
だが、一カ月半後に高倉に思わぬチャンスが転がり込む。「電光空手打ち」(1956)という映画で、その容姿を見込んで主役に抜擢されたのである。以後8年、必死に演技を学んだ。そして、30代半ばであたり役を引きあてる。「日本侠客伝」(1964)。不条理な仕打ちに耐えて、復讐を果たす任侠モノ。「網走番外地」シリーズは爆発的なヒットとなった。
高倉が振り返る。
想像を一生懸命かきたててね。僕の町は炭坑町で、乱暴な町だった。毎年、お盆の盆踊りがあったあとって、必ず殺人があってね。朝、学校に行くとき、必ずそういう莚がかけてあってね。そういうのをいっぱい見ましたよ。だから、僕は品のいい京都で生まれ育っていたら、とてもヤクザものはできてないでしょうね。
1年で10本以上、映画を撮りきる過酷なスケジュール。似たようなストーリーを何本もやって、次第に疲れ果て、演技に熱をこめられなくなったという。そんなとき、自分の映画を上映している劇場に入った高倉はハッとした。
通路も全部座っているんだよ。こんなにドアが開いちゃって、締まらないという。そういう劇場を見て、これは何なのかなと思ったことがあります。スクリーンに向かって、掛け声が飛ぶ。気持ちがこめられなかったシーンにも熱狂していた。分かりません、僕には。なんでこんなに熱狂するのかな、ということは。だから、とても怖いメディアだよね。明らかに(客は)観終わった後、人が違っているものね。
自分がしていることは何なのか?一つの思いが消えなくなった。俳優とは何か。45歳のとき、決断をした。仕事を保証してくれる映画会社を辞め、フリーになった。内容、スタッフ、ギャラ。納得のいく映画だけ撮る。その代わり、最も厳しい環境で、俳優として自分を磨く。
「八甲田山」(1977)で、氷点下20度の進軍を撮った。日本映画史上、最も過酷と言われた。3年間他の仕事は断った。
そして、数々の名優に接し、その立ち居振る舞いを学んだ。「海峡」(1982)で共演した笠智衆。
高倉が語る。
東宝の演技課の連中が、笠さんが着物を着て下駄を履いていらしたから、坂道でちょっと急だったから、後ろから押そうとしたらね。押さないでくださいって。何か怒ったみたいにね。とってもそれが印象に残ってますけどね。時間はたっぷりまだあるでしょうと。私は計って来ていますから、私のペースで行かせてくださいって。すごいな、と。やっぱりなんて言うんでしょうね、凛々しいってああいうことを言うんでしょうね。
強烈な教えが突き刺さったという。生き方が、芝居に出る。
つづく