【プロフェッショナル 高倉健スペシャル】生き方が芝居に出る(下)
NHK総合の録画で「プロフェッショナル 仕事の流儀 高倉健」を観ました。(2012年9月8日放送)
つづき
役を生き、自分を磨くのが俳優という商売だ。笠智衆など名優たちから教わったことは、高倉健はどう生きるのかを問われているということだ。だが、高倉は自らにどんな生き方を課してきたのかを語ろうとしない。
でも、一つだけ、はっきりしていることがある。自分である以上に高倉健であろうとしてきた。
今、考えたら肉親の葬式、誰も行ってません。それは結構、やっぱり自分に課している。俺は絶対それでは撮影中止にしてもらったことはないよと。僕の中ではそれはプライドですかね。言ったら当然中止にしますと、3日間4日間とかなったと思うけど、一度も僕は言ったことがない。一回もないですね。それは僕はどこかで俺はプロだぞって思ってますよ。捨ててるもんだと思いますよ。別にそれは捨てなくたって、やろうと思えばできるんだもんね。
笑うとか、泣くとか、怒るとか、入れ墨入れて人を斬るとか、芝居っていろんなのがあるだろうけど、こういう人生もあって、みなさんどう思いますかっていう。こういう生き方も悪くないんじゃないですかということを、ちょっと見せたいとか、その人のやっぱり人生体験というか、それが俳優さんの価値なんでしょうね。
何にもなくて人生終わる人もいっぱいいるわけだよね。名前だけは有名になったとかさ、金だけはいっぱい持っていたとかね、権力はいっぱい握ったとか。身を捨てても悔いがないという人間に出会ったかどうかという。僕はそう思ってやってますけどね。
11月。撮影終盤。映画は心の動きを丹念に描くため、ストーリーの順序通りに撮影される。高倉は主人公の悩みを共有しながら、撮影に臨んでいた。再び、長崎。自分が生きる道を変える決意が固まっていくラストシーンまでをどう演じるか葛藤していた。
(英二)は決意したから、ここを出発するときに辞表を友人に書くんでしょうけど、何かを感じるんだと思うんですよね。自分の中になかった何かを。
高倉演じる英二は散骨の後、刑務所の仕事を辞めようと決める。妻の故郷への旅で人々と触れ合ったことがきっかけだ。慎ましく生きてきた人々が、ある悲しい犯罪を隠していることを知る。男が職を賭けて旅先の人に肩入れするのは普通のことではない。その決意がどう生まれるのか、高倉は探そうとしていた。この町に漂う独特のもの悲しさ。この町で海を相手に紡がれてきた暮らしを想像する。決意に至る何かを掴みかけていた。
散骨のときに船を出してくれた漁師(大滝秀治)に礼を言いにいくシーン。大滝は一言、「久しぶりにいい海ば見た」。高倉は泣いていた。心によぎったものは何だったのか。
高倉が語る。
大滝さんの台詞で、あの一見静かで平和そうに見える港で暮らしている漁民の人たちの悲しみと喜びというのがね、いつも美しい海じゃないんですよ、ということを言っているわけでしょ。もう私は長い間生きてきて、いっぱい見てきたということだよね。僕はやっぱり突き刺さりましたよ。あれで英二が、バッと心が、よし俺も共犯者になってもいいと思ったね。
僕はバッともろに感じた。言い方と、この気迫でこんなに台詞が変わってしまうんだという。「久しぶりに美しい海を見た」、なんてつまらねえ台詞書きやがるとか、思ってましたけど、ああ変わってしまうというのはね、やっぱりビックリしたね、僕。テーマですね、この(映画の)。
仕事を辞めると決め、退職願を出すシーンでは、映画の中の英二からも迷いが消えていた。
81歳の高倉にどうしても頭から消えない思いがある。
いろんな人と別れるじゃないの。そういうのが重なっていくと、やっぱり人の命ってのはどう努力したって限りがあるということを意識するようになるよね。ましてや映画なんてそう簡単にはいはいって出来ないから、また5年も6年も(休む)となったら、もう1本撮れないかもしれないもんね。不思議な仕事ですよね。
通算205本目の映画がクランクアップした。高倉が語る。
とってもやりたいね。とってもやりたいとまたきょう改めて思いました。これをやらないと食っていけないと思ってやり出してから、五十数年経つのがね。二百何十本もやってきて。まだ分かりませんよ。まだ分からないんですけど、分からないから、やりたいんでしょうね。
高倉は「プロフェッショナルとは?」と問われ、一言「生業(なりわい)」と答えた。その一言だった。すばらしい。これが生業だと思って、仕事ができている人は幸せだと思うと同時に、過酷な自我との闘いをしなければいけない。それを含めての生業である。中途半端は許されない。突き詰めて、突き詰めて、答えを出していく作業をする仕事こそが、プロフェッショナルだろう。
天国の高倉健さん、ありがとうございました。