【向田邦子没後40年】男女、家族、友情。人間の機微を描いた才能は51歳で台湾の空に消えた(上)

NHK―BSプレミアムの録画で「アナザーストーリーズ 突然あらわれ突然去った人~向田邦子の真実~」を観ました。(2021年1月19日放送)

稀有の脚本家であり、小説家、エッセイストとしても魅力的な才能を持っていた向田邦子さんが51歳で台湾の空に散ったのは、今から40年前のことである。1980年に直木賞を受賞した翌年のことだ。僕は高校生だったが、向田邦子脚本のドラマは「あ・うん」も「阿修羅のごとく」も、欠かさず観ていたし、著書の「思い出トランプ」は初版本を買った記憶がある。その向田さんの魅力を解き明かす番組とあって、興味深く拝見した。知らないことが沢山あった。番組では3つの視点から迫っているので、きょうから3回に分けて、見ていきたい。(以下、敬称略)

第1の視点は「脚本家・向田邦子の原点」だ。

1979年1月に放送された「阿修羅のごとく」第一話が流れた。

巻子「なんなのよ、ハナシって―」

滝子「お父さん、面倒みてる人、いるのよ」

一瞬、ポカンとする一同

綱子「オンナ?」

滝子「男が男の面倒みるわけないでしょ」

脚本家の大石静が語る。

その日はお父さんのことを話し合う日なんだけど、4人の姉妹の関係が一発でわかるんですね。説明台詞でなく、生活の中でいかにリアルにディテールをセンスよく描くか。私たちの仕事にとって大事なことですよね。

向田の家庭は保険会社の給仕から部長にまで出世した父親が暴君のように君臨していた。でも、そこには父の深い愛情があったという。9歳年下の妹の向田和子が語る。

「この家に生まれてどう思う?」って聞いたんです。私は親に対して不満があったから。そうしたら、即答「私は本当に幸せ者」って言ったの。「両親がそろって、あたしもあなたも待たれて生まれてきた。こんなにスタートラインが幸せなことってないわよ」って言った。「でもお父さんはそのスタートラインに立っていない。どれだけマイナスがあるか、私たちにはわからない。どんなにご苦労があったかわからない」ということを(邦子は)さりげなく言ったんです。

姉はすごく父親を理解したのよ。父親はなんでこんなことをするのか。そこに何があるのかということを邦子は考えた。生き方、家族の在り方、親子関係、そういうことを邦子は子どもの時からすごく綿密に考えた。

エッセイ「細長い海」より

ビールのせいか、勢いのいい水音が聞えた。それにまじって笑い声がするのである。父はさもおかしそうに笑っていた。さっき食卓でどなったようなものの、父もやはりおかしかったのだろう。お父さんというのは不思議なものだなと思った。

向田が父にメガネをプレゼントしたことがあったと和子は語る。

(邦子が)「お父さん、似合うわあ。折角だから黒枠(遺影)の写真を撮っておきましょう」と言った。お前に黒枠の写真を言われる筋合いはない!とめちゃくちゃ怒った。(父が)「出て行け!」みたに言ったら、邦子は内心出て行きたいから「はあ、ありがとうございます」みたいに「じゃあ、出ます」みたいに出て、「父の気持ちが変わらないうちに行動だ!」と(邦子は)さーっと不動産屋へ走った。そこがドラマなのよ。

東京オリンピックの開会式の日だった。「伽俚伽」より。

猫を連れて入れるアパートを探して、不動産屋の車で青山あたりを回っていたら、開会式の時刻になった。日本中の人がテレビにかじりついているというのに、父と争い家を飛び出して部屋探しをしている人間もいる。たいまつを掲げた選手がたしかな足どりで聖火台を駆け上がってゆき、火がともるのを見ていたら、わけもわからない涙が溢れてきた。

「阿修羅のごとく」第二話

恒太郎「『脳震とう』らしいな」

咲子「――」

恒太郎「少し休めば帰れるそうだ」

恒太郎、札入れを出す

「阿修羅のごとく」の佐分利信も、「あ・うん」のフランキー堺も、「寺内貫太郎一家」の小林亜星も、どこか父に似ていたそうだ。

1975年、向田が46歳のとき、乳がんが発見され、手術をする。そのときのことを妹・和子が語る。

退院してきて、私を寄せ付けなくなったんです。そうしたら、しばらくして、電話がかかってきて、泣きながら電話を切らないように「何か隠している!私は感じている!」とガンガン言った。もう嘘はつけないと感じたんじゃないかしら。(邦子は)「人間って嘘をつかなきゃならないこともあるんです」とものすごく冷静な一言を言って、電話を切った。

その後に、向田から連絡があり、余命のことを和子は知らされる。

「実は私、まともにいくと半年もつかなあ」みたいに言った。「最悪の場合は半年かなあ」みたいにポロリと言った。

手術のときの輸血で血清肝炎になり、余命半年を宣告されたのだという。

「お姉ちゃん、仕事やめたらいかがですか?」と言ったの。そうしたら、キリッとしてこう言った。「仕事をやめるということは、私に死ね!と言うことと同じです」。

そのときである。向田が和子に小料理屋をやらないか?と提案したのは。38歳、仕事をやめたばかりの妹に板前修業をさせ、78年、赤坂に「ままや」を開店。向田にとっても、仕事の打合せなどに利用する良い立地だった。そして、向田の病状にその後、変化はなかった。

つづく