【桂米朝一門60年の軌跡】枝雀、吉朝の死を乗り越えて、米朝落語の真髄は「噺を愛する」弟子たちに受け継がれていく

NHK総合テレビの録画で「苦節を笑いに変えて~桂米朝一門60年の軌跡~」を観ました。(2008年9月5日放送)

米朝師匠の息子である小米朝師匠が五代目米團治を襲名するタイミングで放送された番組だ。米朝師匠が亡くなったのは、その7年後の2015年である。米朝師匠が上方落語を復活させ、それを継承する弟子を育て、さらに孫弟子、曾孫弟子と一門を大きくしていった。その過程の中で、愛弟子の枝雀、そして吉朝を失うという悲しみにも堪え、逞しく若手が育っていく姿は桂米朝という人間国宝の後進の指導の賜物であり、そこに流れているのは「落語愛」だということがよくわかる番組だった。

桂米朝は昭和22年に桂米團治に入門。当時は漫才人気に押されて、上方落語が窮地に立たされている時代だった。入門して4年で師匠・米團治が亡くなり、上方の噺家は10数人となり、途絶えるのではないかとさえ言われた。しかし、米朝は「はてなの茶碗」「天狗裁き」「骨つり」など、多くの埋もれていた落語を復活させ、奮闘した。米朝は言う。「単に復活させるのでは駄目だ。それを商品にしなければならない。商品になって初めて復活だ」。そして、それらの噺は上方落語のスタンダードになっていった。

その象徴といえるのは、1966年から始めた「米朝落語研究会」だろう。一門の弟子たちが稽古の成果をお客様に観てもらう、2か月に1回の会だ。今はこの会の取り仕切りを14番弟子の米二に引き継いだが、米朝はきちんと出番表を付けていて、それも米二に受け渡した。勉強する機会を弟子たちに万遍なく与える心遣いである。

3番弟子の枝雀は稽古熱心な上に、大胆な発想を高座に盛り込み、米朝が一番期待していた弟子だった。最初は米朝の落語を一字一句移すような高座だったが、次第に派手な「枝雀落語」と呼ばれるスタイルを構築する。落語ファンの中には「米朝落語の破壊だ」という人もいた。だが、米朝はそれを評価した。師弟を超えたライバルと見るようになっていた。

「彼とは対等の議論をしました。彼も芸に関しては遠慮しない。特別だった。破壊して結構と思っていました」。だが、米朝が人間国宝になった3年後の99年に枝雀は自殺した。芸について悩み続けたことが原因と言われている。59歳の若さであの世に逝ってしまったことは、米朝にとって大きな衝撃だった。「つらかったです。一番頼りにしている弟子でしたから。もう一皮剥けたら、私より大きな存在になっていたでしょう」。

11番弟子の吉朝を失ったのも米朝にとってはショックだった。的確な描写、洗練された芸、はんなりとした色気は米朝譲りと言われた。米朝は吉朝を「同志だった」と言った。噺が好きで、同じ志を持った男。05年10月の親子会で演じた「弱法師」が最後の高座になった。胃がんと闘い、ベッドの上で稽古し、上がった高座でかけた人情噺の大ネタ。番組ではそのときの録音を流した。12日後に50歳で亡くなった。米朝が言う。「病院に見舞いに行って帰るとき、彼が言ったんです。『長々ありがとうございました』と」。

吉朝の死後、そのショックの大きさからか、米朝の高座にも衰えが見えてきた。噺の同じ部分を何度も繰り返し、前へ進めない。高座を休むことが増えた。米朝の奥様は「折角、後継ぎが出来たのに、という思いがあったと思います」。

06年、ざこばや南光らが小米朝の米團治襲名を提案した。一時期はこの名前を吉朝に継がせようと米朝は考えていたとも言われている。米朝の師匠だったその名跡を復活させることで、米朝を元気づけたいという思いもあった。米朝も「復活したいと思っていた」と了承。米朝一門に新たな中心が生まれた。

「桂米朝集成」から

私も八十という年齢をきいて、やはり感無量なものがあります。老化現象、いわゆるボケ状態というのが出てきているのも自覚しております。急に不安を覚えたり、情けないもんです。居直ってしまって、「もう高座で立ち往生してもええわい。それも面白かろう」というような気になることもある。

米朝は「居直り」に傾いた。08年(放送当時)も、弟子たちと落語会に出演し、「よもやま噺」という形で弟子とおしゃべりするのを楽しむようになっていた。番組で流れた「よもやま噺」では、南光が聞き手となり、米朝がマクラで演っていたという「おでんやの口上」を引き出した。

おでんさん お前の出生はどこじゃいな 私の出生は常陸の国 水戸様のご領分 中山育ち 国の中山出るときは わらのべべ着て縄の帯しめ べっぴんさんのおでんさんになろうとて 朝から晩まで湯に入り ちょっと化粧して 串刺して 甘いおむし(みそ)のべべを着る おでんさんの身請けは 銭銭(ぜぜ)しだい おでんあつあつ

落語を心底愛し、弟子を愛し、また弟子からも愛されて、上方落語が受け継がれていく。米朝は最後に言った。「同志がたくさんできた。安心だ。これで落語も続きますでしょう」。

米朝落語は上方落語のスタンダードとして、これからも生き続けていく。