弁財亭和泉「夏の顔色」一篇の短編小説のようであり、優れたショートフィルムのよう。作家性の高い作品をこれからも創り続けてほしい。

池袋演芸場で「弁財亭和泉真打昇進披露興行」を観ました。(2021・04・26)

4つの定席の披露目では、和泉師匠にとって大千穐楽であった。口上で師匠・歌る多から明かされた事実に胸がキュンとなった。舞台上手に飾られている「招木」(まねき)。墨黒々と弁財亭和泉と書かれた招木を差して、「これは夫である小八師匠から贈られたもので、後ろの贈り主のところに本名が書かれている」と、その夫婦愛が語られた。協会幹部ではないために、口上には上がれなかったが、この披露目をずっと高座からこの招木が見守っていたんだ、と。小八師匠がはにかんだ顔が思い浮かべると、とても良い話だなあと思った。

口上の司会は林家彦いち師匠。副会長の正蔵師匠は、「和泉さんにしかできない喜怒哀楽を織り込んだ新作落語」を高く評価していた。演じ手であると同時に、書き手であることの素晴らしさは、これからますます大きな花を咲かせることになるだろう、と。会長の市馬師匠は噺を作って、喋って二役、家に帰れば芸人の女房であり、母親でもあり、一人で何役もこなすことの大変さは想像に難くない、と。和泉の視点でなければ描けない世界が、彼女の新作にはあると、こちらも高く評価していた。弁財亭の弁は弁舌の弁、アイデアが泉のごとく湧きますようにという和泉。いい名前です、と言っていたが、まさにそのように思う。

古今亭志ん吉「お面接」/ホンキートンク/柳家さん助「黄金の大黒」/三遊亭天どん「名探偵コテン」/林家彦いち「あゆむ」/アサダ二世/三遊亭歌る多「熊の皮」/柳亭市馬「藪医者」/口上/立花家橘之助/三遊亭圓歌「お父さんのハンディ」/林家正蔵「四段目」/柳家権太楼「代書屋」/林家正楽/弁財亭和泉「夏の顔色」

ある人はこの噺を一篇の短編小説のようだと言った。またある人は優れたショートフィルムのようだと言った。現代を舞台にしながら、人間の心の機微をほのぼのと描く和泉師匠の作品は、落語というジャンルを超えた文芸作品のようでもあり、演劇作品のようでもある。作家性の高い台本、登場人物が皆、一流の俳優陣という。それは、この「夏の顔色」に限ったことではない。

高校を卒業して、東京の大学に入学して以来、結婚してもあまり実家に帰ることのなかったマサヨシにとって、実家=故郷=田舎へのノスタルジーはとても大切なものだ。その幻想を壊してあげないように、ネット社会の便利を享受している両親も「昔のまま」のお父さん、お母さんを演じてあげる。そこに親の優しさを感じる。

マサヨシ同様に、妻のキミコも息子のシュウイチも、「田舎=何もない、不便」を受け入れ、逆に「何もないことの良さ」や「わずらわしさからの解放」をエンジョイしている演技をすることが、マサヨシの両親への思いやりだと思って頑張る。スローライフという名の、「ある意味、何もない」ことを楽しんでいる嫁と孫を演じている。

「夏の顔色」の「顔色」とは、お互いに思いやりをもって行動しているという意味だろう。本当はSNS中毒のおばあちゃんが、昭和のおばあさんを演じる。ネットゲームに普段は興じている孫がザリガニ釣りにはしゃいでいる。お互いにそれは間違った認識なんだけど、そう演じることで、お互いに幸せになれる、思いやりをしてあげているという満足感を得られる。それはそれでいいことじゃないかと思う。

僕は和泉師匠の披露目に3日行った。鈴本で「影の人事課」を、浅草で「二人の秘密」を、そして池袋で「夏の顔色」を聴いた。他の日には三遊亭白鳥師匠の作品も演ったらしいけれど、僕はこの3日が自作だったのは嬉しかった。他の師匠の作品を和泉師匠のカラーに染め直して演じる高座も大好きだが、やはり根本は和泉師匠の作家性、演劇性の反映された新作を愛している。これからも、唯一無二の和泉落語を創り続けてほしい。そして、幸せな気分になりたいと思う。