【志村が最後に見た夢】志村けんは人間の喜怒哀楽が描けるコメディアンだった(中)

NHK総合の録画で「プロフェッショナル 仕事の流儀 特別編 志村が最後に見た夢」を観ました。

きのうは「となりのシムラ」を中心に、晩年に拓いた笑いの新境地について書いたが、きょうは時代をさかのぼって、コメディアン・志村けんさんについて、放送番組を基に考えてみたい。(以下、敬称略)

志村は晩年までベタな笑いにこだわったという。志村の言葉だ。「ベタをもっとちゃんとやらなきゃいけないと思っているんですよ。ベタって、みんなバカにしてやらないけど、本当はベタなやつをタイミングと間良くやったら、すっごいいいもんになるんですよ」「マンネリが好きなんですよ。『また、あれだ』っていうのが何回見ても面白いのが理想。“ひとみばあさん”が出てきたら、もう笑えると。その人がこうなって、次こうなって、わかってるもん。でも笑っちゃう。これ名作、みたいなものを常に作りたいんですよね」。

変なおじさんも、東村山音頭も、ヒゲダンスも、そう言われれば、みんなマンネリ。でも、それが出てくるまで期待し、出てきたら喝采し、そして爆笑する。これはすごいことだと思う。

「器用な人はコントやお笑いをやったり、あれこれやったりとか、できますけど、僕はそれができないんですよ。これが一個ちゃんと自分で少し完成したってなるまでは、他に手が出せない。不器用な人間なんで。マンネリって言われるのが全然怖くも何ともないんですね。マンネリまでいくのが大変でしょ。なるべく、マンネリだって言われて、むしろ言ってほしいくらいですね」。

志村の父親は教員で厳しい家庭で、家族の空気は暗かったという。だが、テレビでお笑いがあって、父が笑うと暗い空気は一変し、「笑いはすごい」と思ったという。ザ・ドリフターズの付け人を6年。荒井注の脱退で、24歳にして志村はドリフターズのメンバーになる。当初は何をやっても受けなかった。悩んだ。死に物狂いで考えた。考えることは好きだったから、苦にならなかった。そこから、ヒゲダンスが生まれたとは、加藤茶の証言だ。

人を観察するのが好きだった。そこから設定が生まれ、親しみあるキャラクターが生まれた。「ひとみばあさん」のモデルは飲み屋のおかあさんだったという。信念は、人をとことん好きになること。志村けん著「変なおじさん」から。

らしく見せるコツは何か。僕の場合は、その人物を徹底的に好きになることだ。好きになれば、例えばこのおばあさんはこういうことはしないとか、こういう喋り方はしないとか、いうのが自然とわかるようになる。

「8時だョ、全員集合!」の後も、「加トちゃんケンちゃん ごきげんテレビ」「志村けんのだいじょうぶだぁ」「志村けんのバカ殿様」と人気番組を立て続けに出した。

56歳からは舞台公演を行い、全国を廻るようになった。「志村魂」だ。お客様の反応と拍手と笑い声を直接ライブで感じることができることは財産になった。自信と勇気をくれたという。これでいける!間違っていなかった!「人にパワーを与える、それが僕の命だ」と亡くなるまで14年間舞台を続けた。

そして、節目となる70歳で、これまで断り続けたドラマや映画への出演にも挑もうと思った矢先の急逝であった。