【スーダラ伝説~植木等 夢を食べつづけた男~】ニッポンが“無責任男”に共感した昭和という時代に思いを馳せた(下)

BS-ハイビジョンの録画で「スーダラ伝説~植木等 夢を食べつづけた男~」を観ました。(2005年11月1日放送)

※きのうのつづき

「シャボン玉ホリデー」で人気を博したクレージーキャッツ。ワタナベプロの渡辺晋はレコードを出す戦略に出た。植木等、34歳。萩原哲晶作曲、青島幸男作詞の「スーダラ節」だ。植木の口癖「スーダラ、スイスイ」を音楽にできないか、という発想から生まれたという。ちょいと一杯のつもりで飲んで いつのまにやらはしご酒 気が付きゃホームのベンチでごろ寝 これじゃあ身体にいいわけないよ わかっちゃいるけどやめられない。この歌詞の歌を出すことに、植木は躊躇したという。寺の息子がこんなレコーディングしたら、想像しない人生がくるかもしれない、死ぬまでどう生きたらいいのか?と。

父親に相談した。すると、こう言う。「お前は幸せ者だ。感謝しなきゃいかん。親鸞上人に生き様に通じる」。こんな曲がヒットしたら日本はおしまいと思っていた植木はビックリする。親父のいうことを信じるべきか。作曲、編曲の萩原哲晶は正規の音楽学校で学んだ人、その人がフルバンドのチンドン屋みたいな曲を作った。常識外の歌詞とメロディ、そして編曲。これがヒットの要因ではないかと、青島幸男は分析した。

レコーディングは大変だったと植木がいう。何度歌ってもOKが出ない。嫌になって、いい加減に歌ったら、それがOKになった。親父の言う通りだった。だけど、音楽というのは、清々しい気分になるとか、もの悲しさに共感するとか、そういうのが唄だと思っていたから、ビックリした、と。ヒット?冗談じゃない。俺が考えている日本と本物の日本は違うな、と思ったと。

昭和36年に発売された「スーダラ節」は空前のヒットとなり、「スーダラ」は流行語になり、クレージーキャッツは一躍スターダムに駆け上がった。そこで声を掛けてきたのが東宝だ。「君を主役にした映画を作りたい」。君は無責任という声と顔をしている、題名は「ニッポン無責任時代」だ。昭和37年に公開された映画の脚本は田波靖男という東宝の社員だ。

当時、田波は「風流むせきにん社員」という本を書いて、会社から「不謹慎だ」と没にされていた。サラリーマンがガムシャラに働くことへの反骨。それを田波は映画にしたいと構想した。「平均」と書いて、「たいら・ひとし」という名前のサラリーマンが主人公。社会の約束事に超然とした無責任な男。田波は会社に事後承諾でどんどん撮影を進めた。

昭和37年8月公開。俺はこの世で一番無責任と言われた男 ガキの頃から調子よく 楽して儲けるスタイル~。590万人を動員しての空前のヒットとなった。これに併せるように、青島幸男は「自分にしか書けない歌詞で、世間を茶にしよう、常識を茶にしよう」と曲を出した。「ホンダラ行進曲」「ゴマスリ行進曲」「ハイ、それまでヨ」・・・。

昭和も40年代に入り、高度経済成長に歪みが出た。ヒッピー族が若者に流行り、公害が社会問題化した。東宝の映画シリーズも昭和46年の第30作「日本一のショック男」で幕を閉じた。植木は語る。やっと終わる。ホッとした。この後、どんな役を演じられるのか、そういうものを身につけているのか、どう生きていいのか、怖かった。クレージーキャッツのメンバーも、それぞれの道を歩み始めていた。模索がはじまった。

東京宝塚劇場での植木等公演で、昭和52年に「王将」をやることになった。前から「植木さんの坂田三吉がみたい」という声があった。脚本の北条秀司が自ら演出をした。これがあたり役だった。自信になった。「これなら、何の役でもいける!」と思ったという。

黒澤明監督の「乱」ではいぶし銀の役が光った。そして、木下恵介監督「新・喜びも悲しみも幾年月」で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を獲得。名優の道を歩んだ。

この番組を制作するにあたり、植木等には3日間6時間のインタビューを敢行した。それにずっと横から付き添ったのが、長男の音楽家・比呂公一である。比呂は谷啓、犬塚弘、桜井センリに呼びかけ、「スーダラ節」の新しいレコーディングをおこなった。そして、それを親父へのプレゼントとして捧げた。

植木が語る。人生って、やっぱり縁だと思う。女房と結婚して、20年、30年経って、子供の教育を任せきりにしていたけど、具合の悪い人間には育たなくてよかった。クレージーと出会ったのも縁だよね。俺の一生はほとんどが、クレージーキャッツだった。忙しい中、誰もやめると言わずにやってこれた。クレージーのメンバーの心の温まり具合。これが今の僕を支えてくれている。

植木等の人生はそのまま「昭和史」のような気がした。平成19年に亡くなったけれど、その平成の年月も昭和の香りを残した生き様だったように思う。僕の親父は昭和8年生まれだけれど、やっぱり戦後の高度経済成長を支えた立派なサラリーマンだった。そういうサラリーマンたちに、「スーダラ、スイスイ」とか「気楽な稼業ときたもんだ」とか、一見斜に構えた言い方をしていた植木等は、じつは彼らに最高のエールを送っていたのだと思う。

昭和、平成、令和と続くが、昭和39年生まれの僕自身も「昭和の人間」だと思う。デジタルが発達し、テレワークが叫ばれて、コンプライアンスが喧しい世の中で、僕は「昭和の価値観」を大事にこれからも生きていきたいと思う。

おわり