【スーダラ伝説~植木等 夢を食べつづけた男~】ニッポンが“無責任男”に共感した昭和という時代に思いを馳せた(上)

BS-ハイビジョンの録画で「スーダラ伝説~植木等 夢を食べつづけた男~」を観ました。(2005年11月1日放送)

昭和がはじまった年に生まれ、昭和という時代の変化とともに生きた「無責任男」。サラリーマンとは気楽な稼業ときたもんだぁ~。それはガムシャラに働いて高度経済成長を支えたサラリーマンたちへのエールであり、アンチテーゼだったような気がする。僕自身は高度成長の末期に生まれたので、クレージーキャッツの歌や映画やテレビバラエティをナマで体感してはいないが、その時代の気分というのはオイルショックの頃まで引きづっていたので、よくわかる。もはや、そのカケラもなくなってしまった令和の時代だが、昭和30年代生まれの端くれとしては、「昭和」を愛してやまない。そんな畏敬の念をもって、この植木等が亡くなる2年前に制作されたこの特集番組を大変興味深く観た。

植木等は三重県の寺の息子として生まれた。時代は軍国主義、挙国一致の世の中だったが、住職だった父は戦争反対を掲げた社会運動に参加し、逮捕されて牢獄に入れられた。植木は毎日、宇治山田にある刑務所に差し入れを届けに行ったという。

小学校を卒業すると、東京文京区にある真浄寺に小僧として引き取られた。5時に起きて、寺の仕事をして、夜は夜間中学に通う日々。昭和18年に太平洋戦争が勃発するも、時間があると友人と一緒にチャンバラ映画を観に行き、帰りにはその真似をして友人を笑わせるひょうきん者だった。天性の明るさを持っていたのかもしれない。昭和19年、東洋大学入学。軽音楽同好会に入り、軍需工場に歌手として慰問。タンゴ、シャンソン、ラジオ歌謡、軍歌と色々歌ったという。「女工さんにもててねえ。これで飯が食っていけたら、この方向に進みたいと思いました」。

昭和20年、終戦。町にジャズという新しい音楽が溢れた。進駐軍のためのクラブがあちこちに作られた。バンドが足らず、日本人によるバンドもたくさん組まれた。猫も杓子もバンドの時代。植木もジャズの世界に踏み入る。バンドボーイをしていた19歳のとき、野々山定夫という男に出会う。のちのハナ肇だ。昭和22年に大学を卒業すると、すぐに結婚。ラジオデビューする。だが、仕事がなかなか来ない。楽器をやった方がいいと言われ、8000円するギターを10回の分割払いで購入、教則本を読みながら、チューニングの仕方やコードの押さえ方を覚えた。

寺の息子ということで、バンドでは「ボンさん」という愛称で呼ばれ、ギターは未熟だが、話芸が達者で弾き語りを得意とした。昭和25年に「デクさんのバンド」のオーディションに合格。そこでハナ肇と再会を果たす。外国人相手の演奏だったが、お客が入る前の1時間は日本人従業員のためにサービスで日本の歌を演奏してあげて、喜んでもらった。

ジャズの本場、横浜伊勢佐木町で植木はニューサウンズというトリオを結成する。昭和28年のことだ。モカンボというクラブの専属になった。日本は食糧難を何とか乗り越え、空前のジャズブームがおこった。フランキー堺がドラムを務め、「冗談音楽」と呼ばれる演奏をするバンド、シティーフリッカーズには谷啓、桜井センリがいた。クラシックをぶっ壊すような演奏が面白いと受けていたが、ギターが抜けてしまって困っていた。植木が呼ばれ、「1回限りでいいから助けてくれ」と頼まれ、日劇の舞台に立った。植木がマラカスを持って踊り、口からでまかせの歌を歌うと、これが受けた。フランキー堺は「明日からずっと来てくれ」と言ってきた。植木はトリオの仲間に頭を下げて、解散し、シティーフリッカーズに加わった。それが、昭和29年の秋だった。

一方でハナ肇は新しいコミックバンドの構想を練っていた。犬塚弘と、自分たちも楽しんで、客を笑わせるような変わったバンドを作ろう。昭和30年、キューバンキャッツを結成。だが、メンバーが安定しない。マネージャーをしていた渡辺晋はシティーフリッカーズの谷啓と植木に目を付けた。あいつらを引っこ抜け!昭和31年に谷、32年に植木が合流した。アメリカの進駐軍は「ヘイ!ユー、クレージー!」と喜んだ。クレージーは、彼らのスラングで「いかしている」という意味だった。バンドの名前もハナ肇とクレージーキャッツに変えた。

昭和34年、皇太子ご成婚。テレビの時代がやってきた。それまでジャズ喫茶で活躍していた彼らをテレビ局が目をつけた。その年に開局したフジテレビは、毎日昼12時50分から10分間、生放送で彼らが出演する番組を編成した。「おとなの漫画」である。当時のディレクターが振り返る。「クレージーキャッツはリズムがあって、テンポが良くて、ユーモアがあった」。大枠の台本はあったが、アドリブでさらに面白い番組になった。それは彼らがジャズをやっていたコメディアンだったからできたのである。特に植木は「いいかげんな男」のキャラクターが受けた。構成作家だった青島幸男は「植木に毎日何かをやらせることを考えた」。

昭和35年、ピアノの石橋エータローが入院し、代演に桜井センリを頼んだ。以来、彼はクレージーキャッツのメンバーになる。昭和36年、日本テレビで「シャボン玉ホリデー」スタート。ザ・ピーナッツを加え、日曜夕方にお届けする音楽バラエティだ。最初はメインが音楽で、コントは「おかず」だった。ところが、いつのまにか、「コントの方が面白い」ということになり、メインになった。植木の「お呼びでない・・・こりゃまた失礼しました」は大流行。青島幸男は振り返る。「植木さんは台本を読んでしばらく考える。重い。でもその後、うん、わかった!とやってみる。それが面白い。軽い。期待以上のものができるんです」。

この植木・青島コンビがレコードを出すことになり、それが「スーダラ伝説」へとつながるのである。

(つづく)