【大鵬 あなたはなぜ強かった】心技体が揃った相撲を見せてくれた大横綱は天国で何を思うのか(上)

BS-ハイビジョンの録画で「大鵬 あなたはなぜ強かった」を観ました。(2005年1月3日放送)

第48代横綱、大鵬幸喜。大相撲史上の残る大横綱である。僕が小・中学校時代に相撲に夢中になったときは、北の湖全盛時代だったが、そのときには双葉山、大鵬に続く大横綱と言われていた。その後、それに並ぶ横綱は千代の富士、そして白鵬であろうか。昭和46年引退だから、僕は現役時代の記憶がない。ただ、貴ノ花に負けた翌日に引退を表明したとか、32回の優勝は今後も誰も破ることができないだろうとか(その後、白鵬が破るが)、史上最年少横綱の記録を北の湖が更新したのは快挙とか、その折々で「大鵬」という存在は力士としてのすごさの物差しになっていたとように思う。

16年前、つまり大鵬親方が定年で角界から去る1年前に放送されたこの番組を見て、相撲道とは何か、心技体が揃うとは何か、ということを改めて考えさせられた。大鵬親方の言葉少ないインタビューの中に、力士としての心構え、それは人間として大切なことにもつながるのだが、それを教えられたような気がする。いま、大相撲の世界は群雄割拠。トップに立って、リーダーとして角界を支える力士が不在だ。果たして、大鵬のような力士がいつ現れるのか、そこに期待をしたいし、そういう存在が現在の大相撲に求められていると思った。

納谷幸喜が角界入りしたのは昭和31年。「もはや戦後ではない」と言われた高度経済成長期の発端である。中学を卒業した者は「金の卵」と呼ばれ、地方から就職列車に乗って上京した。北海道の弟子屈に力士志望の少年がいると知らされ、当時の二所ノ関親方(元大関・佐賀の花)は部屋付きの行司、後に29代木村庄之助になる櫻井に迎えに行かせた。

入門志望者は必ずパンツ一丁にさせられ、身体を親方が見る。納谷幸喜は身長183センチだったが、体重は70キロ。だが、二所ノ関は「お尻が大きい」と評価した。腰が据わっているというのは力士にとって重要なことだ。当時の二所ノ関部屋には100人を超える力士がいた。痩せっぽちの16歳の少年に親方は夢を託した。

おかみさんが当時を振り返る。部屋全体で食べるお米が半端じゃない。何人かの力士が買いだしに行って、トランクいっぱいにお米を運んだ。「腹いっぱい食える」というのが動機で入門する者が多かった時代だ。部屋は荒稽古で有名だった。鬼軍曹と呼ばれた武見山が陣頭指揮をとって、厳しい稽古が繰り返された。

世の中は神武景気、太陽族が流行。納谷は序の口に番付が載った。同期の元幕内の大心、長田留雄は長万部出身で、同じ北海道とあって、仲良くした。納谷に初めて土をつけたのも長田だった。同期には大関になった清國もいた。口を揃えて「納谷は二所ノ関の米櫃だった」と言う。伊勢ヶ浜親方になった清國は言う。「彼の口癖は『俺は天才じゃない』。樺太から出てきて、苦労した彼は強くなりたいの一心で稽古に励んだ。その根性はすごかった」。

初土俵から2年4カ月で新十両に。親方は「大鵬」という四股名を与えた。土俵入りで羽ばたく姿をイメージして付けた名だという。19歳7カ月で新入幕。身体も187センチ、101キロに増えていた。その昭和35年初場所、大鵬は11連勝する。そして、12日目に対戦したのが小結だった柏戸だ。二所ノ関親方夫人は「みんながドキドキして観ていました」と振り返る。結果は下手出し投げで柏戸の勝利。「負けてよかった。今度は勝つぞという相手ができたんです。まだまだ上(の地位)がある」。その場所は敢闘賞を受賞。同年名古屋で小結昇進。

たちまち、国民的アイドルになった。「週刊少年サンデー」では昭和35年の1年間で表紙を4回も飾っている。巨人軍の長嶋と並び、少年たちのヒーローだった。時代は岩戸景気、即席ラーメンが発売された。同年秋場所に関脇、九州場所で優勝し、大関昇進を決める。池田勇人首相は「所得倍増計画」を打ち出した。

番組では相撲実況で有名な内藤勝人アナウンサーが大鵬親方にインタビューした。「大鵬さんに初めてお会いしたのは昭和43年夏場所でした」。昭和36年秋場所、柏戸と12勝3敗の同点で優勝決定戦の一番を見ながら、当時に思いを馳せた。勝負はうっちゃりで大鵬の勝ち。「対照的なお二人でした。差す相撲の大鵬、出足勝負の柏戸」。この場所後に二人揃って、横綱に昇進している。大鵬が言う。「柏戸さんは怪我が多く休場した場所は寂しかった。彼が私の力量を測る尺度でした」。

剛の柏戸、柔の大鵬。しなやかで綺麗な身体の大鵬は女性からの人気も高かった。当時、宝塚のトップだった寿美花代さんは女性誌の企画で大鵬と対談した。「誰と会っても緊張しない私が、大鵬さんにはドキドキしました。後光が差しているような。太陽のような存在でした」。月刊「相撲」の昭和36年10月号では、大鵬より4歳年上の長嶋茂雄との対談が組まれた。その長嶋が語る。「オーラがすごかった。巨人、大鵬、玉子焼き、ですよね。巨人軍としてはV9のはしりですから。ともに歩んだ気がします」。昭和36年のヒット曲は「上を向いて歩こう」。

昭和39年、東京オリンピック。破竹の勢いで優勝を重ねた。昭和43年秋場所2日目から連勝街道がはじまる。双葉山の69連勝を破るか、に注目が集まった。昭和44年春場所2日目、戸田との一番。軍配は大鵬に上がったが、物言いがつき、行司差し違えで大鵬の連勝は45でストップした。「やっぱり、悔しかったですね。(その晩は)酒をいっぱい飲みました」。

その後も「負けない相撲」「自然体」と呼ばれ、優勝を重ねる。当時、佐田の山だった出羽の海親方は「つかまえて動かない取り口がすごかった。王道というべき相撲でしょうね」と振り返る。

昭和44年夏場所千秋楽、柏戸との37回目の対戦。寄り切って、大鵬の勝ち。これで、大鵬の21勝16敗。場所後に柏戸は引退。これが最後の取り組みとなった。「お互いに辞めるなよ、と言い合っていたが、来るべきものが来た」と大鵬は振り返った。

(あすへつづく)