田辺いちか「熊田甚五兵衛」大男・甚八の豪傑ぶりと、知恵者・大久保彦左衛門の頓智が愉しい一席に。

上野広小路亭で「講談協会定席」を観ました。(2021・03・24)

田辺いちかさんの「熊田甚五兵衛」を聴いた。知恵者、大久保彦左衛門の一端が汲みとれる逸話として非常に興味深かった。

彦左衛門は時々、故郷・三河に戻って人材を発掘することがあった。彦左衛門は大久保村に住む甚八という18歳、身の丈6尺という大男に目をつけ、彼と母親を江戸へ連れてきた。甚八は槍持ちとして働く。

ある日、お供を揃えての千代田城への登城。甚八は母親にこの行列の模様を主人の彦左衛門に内緒でそっと見せてしまう。が!これを知った彦左衛門は激怒。甚八は手討ちに。首を斬る際には刀に水を掛ける。それならばあらかじめ用意しておこうと甚八は手桶に水を汲んでおく。首を斬られた後、後片付けで迷惑をかけないように莚の上で死のうと、準備しておく。いよいよ首を斬られる段になった。「覚悟はよいか」。彦左衛門は刀を振り下ろすが、峰打ちで首が斬られはしなかった。彦左衛門は甚八の度胸の良さに感心したのだった。

彦左衛門は甚八の胆っ玉の太さから、「豪傑」という仇名で彼を呼ぶことにした。彦左衛門のみならず家来の者たちも、甚八のことを「豪傑」と呼ぶ。それに対して甚八も大声で「ウォー」と吠えて答える。

ある時、彦左衛門は仙台藩主の伊達政宗と顔合わせをする。政宗からは「度量の大きい家来を一人世話してくれないか」と頼まれた。彦左衛門は「『豪傑』が一人いる」と返答する。300石を与え、何の武芸に優れているかはお抱えになれば分かると言う。それでは明日その男を連れてくる。政宗はその御礼に彦左衛門に300両を渡すことになった。

翌日、彦左衛門の家来である佐々木喜内が甚八を連れて、政宗の屋敷にやって来る。この者の名前は何というかと尋ねられるが、肝心の名前を考えていなかった。「甚八」では豪傑らしくない。喜内は衝立に熊の絵が描いてあるのを見て「熊田甚五兵衛」という即席の名前を付けた。気まずい喜内は300両の金を受け取ると、そそくさと政宗の屋敷を退いてしまう。政宗の家来は、甚八に「熊田氏」と声を掛けるが返事はない。繰り返し声を掛けると、大声で「ウォー」と叫ぶ。政宗の家来たちは驚く。

甚八は家来たちに連れられて、政宗公のいる広間までノッシノッシと歩く。甚八はこの小さな男が伊達政宗であるとは知らない。政宗は「そちは熊田と申すか」と尋ねる。自分のことを「熊公」と馬鹿にするのかと思った甚八は、「ウォー」と耳を突くような大声を出す。政宗公も驚いた。これはよほど胆の据わった大物に違いない。

政宗は甚八に、剣術は何流かと尋ねる。「そんなもの知らぬ」と甚八は答える。さらに柔術も弓術も馬術も知らないと言う。ならば槍はどうかと政宗は言う。「それならば心得がある」と甚八は答える。槍は何流かと政宗は尋ねる。「何流もない、ただこうやるだけだ」と甚八は槍持ちの格好をする。「俺は槍持ちの甚八だ」。「小奴は『豪傑』なんでもないではない、ただの槍持ちではないか。彦左衛門を呼べ!」、政宗の怒りの声が響く。

ようやく露見したか、と彦左衛門は政宗の屋敷にやってくる。「よくも偽りを申したな」、政宗は怒っている。彦左衛門は答える。「槍持ちならば『豪傑』とは言えないのか。武芸に優れていても魂が相応しくなければ『豪傑』と言えないのではないか」。この甚八がなぜ『豪傑』と言われるようになったのか、彦左衛門は事細かに話す。政宗公ならば真実を見抜いてくれるだろう。政宗も「余が間違っていた」と納得した。政宗は改めて300石で甚八を召し抱えると言う。この後は文武両道に励み真の豪傑になっておくれ、彦左衛門は甚八に語る。この言葉通り、甚八は修行に励み、仙台藩でも右に出る者はいないという誠の豪傑になった。

いちかさんのフレッシュな話芸で、大久保彦左衛門の知恵者ぶりとともに、甚八のまさに「豪傑」ぶりが伝わってきて、非常に面白かった。