【昭和の微笑 夏目雅子】お嬢様芸から脱却し、女優魂に燃えた短い生涯に思いを馳せた(下)

BS-JAPANの録画で「昭和の微笑 夏目雅子~29年目の真実~」を観ました。(2014年4月12日放送)

※きのうのつづき

昭和57年、「鬼龍院花子の生涯」は夏目雅子の女優としての魂が一番に燃え盛った映画ではないだろうか。バセドー氏病の手術を隠して、撮影に臨んだのは周りのスタッフへの気遣いもあるだろうが、自分の信念を貫き通すことでもあったのかもしれない。五社英雄監督の元、侠客・政五郎の娘を演じることは、覚悟のいる仕事だった。

と同時に、雅子は天真爛漫な性格で、周りのスタッフへの思いやりの深い女優で、照明や録音技師のみならず、美粧や方言指導の人にまで娘のように愛された。映画史に残るあの名台詞は、五社監督と高知弁指導者と雅子とのコミュニケーションで生まれた。宮尾登美子の原作にあのような場面はない。五社監督が「福岡弁の『しぇからしか』にあたる方言はない?」と訊き、「なめたらいかんぜよ」があると提案した。五社の心の叫びともとれるこの台詞を、雅子は本番一発で決めた。

男言葉の啖呵が、お嬢様芸を払拭した瞬間である。五社はこう振り返っている。「雅子はすごいよ。淑女、賢女、遊女から毒婦まで演じることができる。あの子は間違いなく大女優になるよ」。この映画で雅子はブルーリボン賞主演女優賞を獲得している。その授賞式のときの彼女のコメントがふるっている。「これからも、お嬢様芸で頑張ります」(笑)。

スタッフへの思いやりは、小達家で育ったことが大きいという。分け隔てない、上に媚びない性格の形成。小達家のお手伝いをしていた女性の証言では、「私たちを差別することがなかった。姉妹のような関係だった。みんな平等という」。

昭和58年、雅子25歳のときの映画、「魚影の群れ」は相米慎二監督に厳しく鍛えられた作品だ。壮絶な撮影で円形脱毛症になるほどだった。ここでも、雅子は舞台となる青森大間の方言指導をする「ミッチャン」と親しくなる。当時交際中だった伊集院静と電話の最中に「ミッチャンに変わるね」と受話器を渡したのだ。伊集院は「子どもなんで、よろしくお願いいたします」と話したという。

夏目雅子を変えたのは恋愛だった。伊集院静との恋。女優として飛躍するとともに、女性としての幸せを掴もうとしていた。二人で馴染みにしていた鎌倉の寿司屋の女将さんは語る。「彼女は嫉妬さえありのままに出す。自分をすべて出して、正直に生きる。自分をさらけだしていた」。純粋にひとりの男性を愛する雅子がそこにいたわけである。

母のスエは当時を回想し、こう書いている。「反対されればされるほど燃え上がったのは、踏まれれば踏まれるほど強くなる麦と一緒だった」。自分の信じる愛を貫き通す。けして順風満帆ではなかった恋愛に雅子は一途だった。生きていても仕様がないから。でも、死んでしまうって考えられないから。

二人は婚前旅行で群馬水上温泉に行き、ふたりだけの時を過ごした。思えば、CM撮影で出会ってから7年。女優としての葛藤。母との軋轢。届かぬ恋心。いくつもの悩みを抱えながらも、雅子が掴んだ幸せだった。

昭和59年、結納。雅子の俳句。結婚は夢の続きやひな祭り。だが、その夢は束の間だった。あまりにも短かった。昭和60年、パルコ劇場で初舞台「愚かな女」に挑戦。デビュー前を知るプロデューサーが語る。「デビューするときに、良い女になりなさいと言ったんです。で、この芝居を観終わって、会食をしたときに、雅子が『私、良い女になった?』と訊いてきた。覚えていたんですね」。

だが、この舞台の後、雅子は病魔に襲われる。急性骨髄性白血病。彼女には「強度の貧血」と伝えた。医師は「奇跡を起こすしかない」と言った。家族は「雅子がやりたがっていることをやらせよう」と話し合った。そして、あれだけ芸能界を否定していた母・スエに彼女の作品を観せた。母は初めて「女優・雅子」を認めた。そして、母の頑固な心は雪のように解けていったという。

伊集院静はずっとつきっきりで看病した。一緒に病室から見た花火を見て、雅子が詠んだ。間断の音なき空に星花火。入院7カ月。昭和60年9月11日。夏目雅子、永眠。享年二十七。

向日葵を愛し、女優という仕事を愛し、俳句を愛し、出会った人たちを愛した、昭和の微笑み・夏目雅子。

伊集院静が「向日葵の頃」と題して書いている。

両手を羽にしてあなたが飛んで行く。小さな蝶々が天使を追い掛ける。向日葵の咲く頃に入道雲を抱き、木陰でくちずけたミルクの肩先。向日葵はいつでも太陽に向かう貴方の明るさにとても似てる。人生はつかの間、燃え立つ炎か、はかない蜃気楼のようなものか。ああ見上げれば時は止まり、貴方が笑って降りてくる。