【昭和の微笑 夏目雅子】お嬢様芸から脱却し、女優魂に燃えた短い生涯に思いを馳せた(上)

BS-JAPANの録画で「昭和の微笑 夏目雅子~29年目の真実~」を観ました。(2014年4月12日放送)

夏目雅子が27歳で早逝して、もう35年になるのか。随分と以前に録画したままだった番組を引っ張り出して、観た。僕が中学生のときに、彼女は「西遊記」で国民的女優になった。当時、20歳。僕は夏目雅子に似ている同級生に初恋をした。屈託のない、天真爛漫な性格もそっくりで、今でも「夏目雅子」という女優が他の女優さんとは別枠で、僕の頭の片隅にこびりついている。そして、今改めて、この番組を観て、「女優・夏目雅子」の魅力を再確認した。彼女の短い生涯を振り返りながら思ったことは、彼女の魅力は女優として、人間としての懐の深さにあるのだと気づいた。

夏目雅子が愛したもの。向日葵。花言葉は「あなたは素敵だ」。ソフィア・ローレン。越路吹雪の唄う「愛の讃歌」。寿司。日本酒。俳句。特に種田山頭火。ジョージ秋山の「浮浪雲」。そして、伊集院静。

昭和32年、彼女は横浜山手にある雑貨商、小達家に生まれた。いわゆるお嬢様。内気で引っ込み思案だが、思いの強さは人一倍あったという。東京女学館の白いセーラー服が似合う少女だった。

17歳のとき、一本の映画に出会う。イタリア映画「ひまわり」。ソフィア・ローレン演じるジョバンナは強い意志を持つ女性で、雅子は女優を志した。昭和51年、18歳のとき、内野タオルのテレビCMでデビュー。日本テレビの連続ドラマ「愛が見えますか」に出演。500人の中からオーディションで選ばれ、盲目の少女を演じた。だが、演技は下手で、NGの連続。監督やプロデューサーが降板を考えたが、彼女は「降りたくない」と突っぱね、頑固に役をやり抜いた。そのとき、女優の醍醐味を知ったのだという。

彼女の第一の転機は、カネボウの化粧品のキャンペーンガールの抜擢だろう。昭和52年、「Oh!クッキーフェイス」のキャッチコピーで評判をとった。小麦色の肌が売りとなり、「夏の目玉」ということで、本名の小達雅子から夏目雅子に改名した。CM撮影のハプニングで、予定外のセミヌードになることになっても、彼女は臆さなかった。当時のカメラマンが語る。「彼女は周りが困るだろうと気遣った。親にも相談せず、潔く自分だけで判断した。信念のある女性だった」。

芸能活動自体に反対していた母・スエとは軋轢が生まれた。だが、雅子は自宅に戻ると小達雅子となり、母との時間を大切にした。友達は要らない、母がいればいい、とまで言い切った。ドラマのプロデューサーが振り返る。「負けず嫌いでした。ママに認められたい。もっとも親しい敵は母だと言っていた」。女優人生の原動力として、母が存在していたと言ってもいい。

「Oh!クッキーフェイス」のCMディレクターが伊集院静だった。7年後に結婚する相手である。撮影のために滞在したパリのホテルについて、伊集院はこう書いている。そのホテルの作りが古かったせいか、私には天井裏に差し入る月の光のなかで童話の主人公がそこにいるように見えた。雅子も俳句に遺している。結婚は夢の続きやひな祭り。

昭和52年、雅子には女優の仕事が数多く舞い込んだ。当時の新聞のインタビューにこう答えている。台詞も芝居も思った通りにできないんです。それがとても悲しい。名前が売れているだけで何もできないと言われるんじゃないかと。世間は「女優・夏目雅子」に辛口批評だった。お嬢様芸。学芸会と揶揄された。

チャンスが巡ってきたのは、20歳のときだ。ドラマ「西遊記」で、三蔵法師の役に抜擢。堺正章、西田敏行、岸部シローといった個性派俳優に混じって、芝居ができることが糧になった。当たり役だった。NHKの大河ドラマと同じ日曜夜8時の放送にもかかわらず、27.4%という視聴率をたたきだした。彼女は本格派女優になりたいと、事務所を移籍した。

当時の「週刊明星」のインタビュー記事にこうある。ハングリーな人がまるでいい、そうでない人がまるでダメ、みたいな言い方をされると、すごく頭にきちゃうわけですよ。ハングリーな人なんか、蹴飛ばしてやろうと思ったりして。お嬢様と言われるのが嫌で、負けず嫌いな雅子であった。

その象徴が、昭和54年に父のガンの摘出手術に立ち会ったエピソードだ。「先生と看護婦のメスの受け渡しが勉強になった」と後に述べている。ドラマ「野々村病院物語」にそれは生きた。

母のスエが書いた「ふたりの『雅子』」に、雅子の当時の言葉が載っている。自分と全然違う人の気持ちを考えたり、その人の世界に入っていくのって、ママ、面白いと思わない?苦しんで苦しんで、その人になる事って快感なんだよ。

お嬢様芸から脱却し、強い闘争心をもって、女優に取り組む夏目雅子がそこにある。

(つづく)