【ナンシー関のいた17年】見えるものしか見ない。しかし目を皿のようにして見る。そして見破る。天国で彼女は今の日本をどう見ているだろう。

NHK―BSプレミアムの録画で「ナンシー関のいた17年」を観ました。(2014年12月14日放送)

独特の観察眼による「テレビ批評」と唯一無二の「消しゴム版画」で多くの熱狂的なファンを獲得したナンシー関。稀代のコラムニストの短くも激しい人生を余すところなく描く。『私は“顔面至上主義”を謳う。見えるものしか見ない。しかし目を皿のようにして見る。そして見破る。』テレビ画面に映ったものがすべて、という一般視聴者と同じ視点で批評する。それがナンシー関の矜持であった。こう、当時の番組紹介に書かれている。実にクオリティーの高いドキュメンタリードラマだと思った。

番組の中で紹介されていたテレビタレント批評の中で、秀逸だと思った4つを挙げてみたい。

今のタモリをよしとするのは、「やっぱりさあ、タモリって面白いよなあ」というものとはつながっていない。皆が見ているけれども、誰もが見つめてはいないという、ある意味テレビタレントの一つの到達点に至ったと言ってもいいかもしれない。

松田聖子は「ファンでした」という世間の意識によって存在している。現在も新曲を出したりしているわけだが、それすら「ファンでした」という気分をいい状態に保つためのオプションでしかない。思い出の反芻は目減りのしにくい娯楽だ。

徹子の部屋は良心的番組とされているのに、ゲストに非常につらいことを強いる。「若い人たちの間ではとっても人気がおありで」と紹介し、「お得意の出し物がおありなんですって?」とリサーチ済みの話を振る。ゲストはこの時点でもうつらいが、説明したあとの「はあ、それが評判なの」などという徹子リアクションである。善意のみでも悪意は発生する。

ここに年寄りが集まる理由は明らかだ。毒蝮は自分のことをちょっといい話の主人公にしてくれる。もう私のような若輩者が何やかんや口をはさむことではありませんね。フォーエバー、毒蝮。

ナンシー関の17年は1985年にはじまる。雑誌文化が華やかだった時代。「ホットドッグプレス」の編集者だったいとうせいこう氏にその才能を見出された。消しゴム版画から、「この人は文章もいけるはず」と見抜いたいとう氏はすごい。

「似顔絵を彫るということは、どの角度のその人を彫るかということで、批評精神も表れる。彼女の場合は横にちょっとしたキャッチコピーも入れるじゃないですか。コラムニスト的な角度というのがあるわけですよ。最初にあがってきた原稿に改行が一個もないんです。ビッシリ書いて。言いたいことが浮かんじゃって、浮かんじゃって。筆がのっちゃう何かがナンシーの中にあったと思うんです」。

ちなみに、本名の関直美からペンネームのナンシー関を名付けたのは、いとうせいこう氏である。

「版画は古いメディアに見えちゃう可能性があるんですね。カタカナのナオミ・セキでも良かったんですけど。でも、ナンシーという名前を日本人がつけていることがバカバカしくていいなと」。

個性豊かなサブカルチャー文化が全盛であった80年代後半、ナンシー関はイラストレーターとして、コラムニストとして、快進撃を続ける。なかでも、テレビ批評が最も人気があり、彼女は1日15時間以上もテレビを見ていた。

シンコーミュージックの編集者・君塚太氏の勧めで初めての書き下ろし「ナンシー関の顔面手帖」を出版。世界文化社の編集者・桒田義秀氏によって様々な連載コラムをまとめた「何様のつもり」が世に出て、世間一般にナンシー関の名は知られるようになる。

「あなたのコラムはテレビ批評という体裁をとった社会批評であり、すぐれた日本人論だ」と桒田は絶賛したという。

ナンシー関は現場取材をするルポルタージュにも挑戦し、「信仰の現場」という本を出したが、続編を諦めた。生来、視力が弱く、取材が難しかったというのが理由だ。「テレビは何でもアップにしてくれる」。彼女はテレビを見て社会批評をするという方法論が一番あっていたのかもしれない。

君塚氏は「ナンシーは圧倒的にテレビを見ている。一日中、テレビを見て、テレビのことを考え、観察している。テレビの裏側とか、業界の事情とかとは一線を画し、視聴者としてのスタンスでテレビを見るから良いのだ」と分析した。実際、いとうせいこう氏も「彼女はテレビ出演を断った。テレビとのつながりができてしまうと批評ができなくなってしまうからだ」と述べている。

1993年はエポックメーキングな年だ。「週刊朝日」で「小耳にはさもう」、「週刊朝日」で「テレビ消灯時間」の連載がスタートしたのだ。いままでの出版界では考えられない出来事だった。僕も両誌を愛読し、スクラップした。憧れの人だった。

2000年からは「CREA」で月に一度の、リリー・フランキーとの対談「小さなスナック」の連載もスタートし、彼女は大変に楽しみにしていたという。

リリー・フランキー氏が言う。「女性としゃべって、こんなに大笑いするのはナンシーさんだけ。本当に面白い人だった。つまらないことでも面白くしてくれるんです。僕が幼稚園の頃、泣きながらバスを降りて、幼稚園から家に帰っていた。脱走を繰り返していた。それをナンシーさんが『5の夜ですね』って。尾崎豊の『15の夜』ではなく、『5の夜』。そんなことをサラッと言える」。

2002年、突然の死。虚血性心不全。

リリー・フランキー「最後の対談のときに、俺はタロットカードができると言うと、彼女は『私のことは当てさせない』と言っていた。それが、突然亡くなるとは。さすが、ナンシー関は当てさせないね」

君塚太「ナンシーさんがいないんだという不在感は本当に大きいんだと思う。こんな事件がありましたということが起こるたびに、ナンシーさんだったら何と言うだろうと」。

いとうせいこう「すごくちゃんとしたコラムを切れ味良く生み出すということにおいて尊敬していました。テレビ欄にコラムがない新聞じゃないと嫌で読まない。ナンシーがいる頃の水準が当たり前だと思っているから」。

この番組のエンディングが秀逸だった。ドラマの中のナンシー関がつぶやく。

「『ナンシー関のいた17年』を見た。ナンシー関の人生を描くとか言っておいて、結局お涙頂戴ってどうなのよ。保険かけてどうする。NHKの限界を見た。合掌」。

世の中にコラムニストは多かれど、ナンシー関のような毒とユーモアと現代社会を鋭くえぐる眼力を併せ持ったコラムニストは2002年以降、出てきていない。