「SWITCHインタビュー 達人達」柳家喬太郎(落語家)×伊藤亜紗(美学者)自分以外の人間に想像力をめぐらす二人が響きあった。

NHK-Eテレの録画で「SWITCHインタビュー 達人達 柳家喬太郎×伊藤亜紗」を観ました。(2020・04・25放送)

古典も新作も変幻自在の落語家・柳家喬太郎と、「目の見えない人は世界をどう見ているのか」がロングセラーになっている美学者・伊藤亜紗の対談は「自分以外の人間に想像力をめぐらす二人が響きあう」、非常に興味深いものであった。前半は喬太郎落語について、伊藤亜紗さんが聞き手になって切り込む内容も良かったが、「美学は哲学の兄弟みたいな学問ですよ」と説明し、東京工業大学准教授でもある気鋭の美学者・伊藤亜紗さんが喬太郎師匠に自分の研究をわかりやすく伝えてくれた後半はまさに目から鱗の内容で、素晴らしいインタビューであった。(以下、敬称略)

まず、前半。舞台は怪獣酒場で、ウルトラマンを入り口に喬太郎の落語観へ迫っていくのが鋭かった。等身大のヒーローじゃない方が好き、リアルでかっこいいものよりも非現実的でかっこいいものが好きだった。僕を形成している重要な一つに怪獣ものがある。新作落語に出てくるのは当たり前のこと。こうした喬太郎の言葉に、リアルのようでリアルじゃない落語観が見える。

大学の落研時代に作った新作落語を例にして、「純情日記 横浜編」は僕の中で一つの人格だと喬太郎は語った。伊藤が「それは生きている、成長していくってこと?」と訊くと、肯定し、「あいつに任せておけば大丈夫」というのがあると。何人かの噺家にこの噺の稽古をつけてあげているが、そのときに「久しぶり」という違和感があって、「元カノといる、みたいな」と笑っていたが、「お帰り」と思ったと。そしてしばらくして、「こいつ修行してきた」と思ったと。もう一つの初期の新作落語「すみれ荘201号」は、「あいつ(純情日記)は行ってるから、俺はここに居ますよ」って、僕の中にずっといた感じがあったそう。

喬太郎は台本を作らない。「横浜開港記念150周年記念落語」を作ったときのメモを伊藤に見せていたが、「シーンごとに概略がまとめてあるだけですね」。どうやって記憶して、再生するのか?と問われると、記憶しない。忘れちゃうと。そうやって練り上げる作業ができて、無駄も省けていって、形になってくる。そう喬太郎が言うと、伊藤が「絵画で目垢という言い方があって、みんなが鑑賞すると絵が変わってくる。名画っていうのは、みんなが見るから名画になる」と反応したのが興味深い。

古典落語もそうやって練られていく。埋もれた噺もいっぱいある。と言って、自分が掘り起こした明治大正期に作られた新作「擬宝珠」を例に挙げた。フェチの噺。当時の人は理解できなかった。平成だから、令和だから魂が宿った。そういう感覚の噺がまだまだあるんじゃないか、と。伊藤が「新作も古典だし、古典も新作だし」と反応すると、喬太郎は嬉しそうに「そうなんですよ。古典も昔は新作だった、とはよく言われますが、古典だって、やりようによっては新作落語になるんです」と。

伊藤の投げるボールが良い。「落語は温泉にみんなで浸かってる感がある」に、お互いに伝染しあっているみたいな、共有している感じはあると思うと喬太郎。「結構、落語ってバッドエンド。それでスッキリするみたいの、ありません?」とも伊藤は言って、子どもの頃に見た動物番組を例に挙げた。あれって、弱肉強食をそのまま映しているんだけど、残酷じゃない。「最後はみんな死んじゃう。そういうことなんだよ、世の中は。こういう風にできている」と教えてくれる。これに二人が激しく共鳴していた。

死生観。生まれ変われるなら、色々なものに生まれ変わりたい!と二人。ミジンコになってみたい!と意気投合するのが面白かった。人間であることに囚われない。そこは大事なことだ。落語に通うようになって元気になる感じがある、と伊藤。喬太郎は「与太郎」を例に出した。「同じだよ。仲間だよ。大丈夫だよ」なんて、ことさら言わない。伊藤が言う。ダイバーシティとか、多様性とか言う前に、それぞれの持ち場で(能力を)発揮している、それで回っている、それが居心地が良いのだと。障害者はいつも障害者じゃない。お父さんでもあったりする。自分から見えている姿じゃない面もいっぱいあるんだと。

で、後半。舞台は東工大の地球生命研究所。まず、喬太郎が単刀直入に「美学者ってなんですか?」と問う。冒頭にも書いたように、「哲学の兄弟みたいな学問」と伊藤はまず答え、続けた。美学は言葉に対する警戒心がある。言葉で全て語れないよね。私自身が言葉に対する距離があった、と。伊藤はどもる子どもだった。喋るのにいちいちハードルがあった。言葉って何だろう?と考える機会が多かった。どもっているとき、体が置いていかれる。言葉には体の葛藤はのってないし、このズレを考えたい、と。

伊藤の著書「どもる体」(医学書院)からの引用。こうやって原稿を書く作業は本当に楽しく、言葉がさらさらと流れていく快感があります。でも、しゃべるとなると、言葉の湿度と粘り気が一気に上がる感じがする。言葉よ、私の体にまとわりつかないでおくれ。

視覚障害者とコミュニケーションすることをライフワークにしている伊藤が喬太郎に話す。普通の言葉は健常者用にできているので、彼らの経験を表せない。たとえば「手を使って見る。手で見る」。障害を持った方の話を聞くことと、小説や詩を読むことが近い。言葉で言い切れないものを何とか言おうとしている。自分の体にフィットしてない環境にいる。ジャングルにいるみたいな。その環境をどう楽しむか。全部人間の体の可能性。見えてる体の可能性を今自分は実現しているけど、そうじゃない可能性も体にはある、と。

伊藤の「障害は欠如じゃない。基準が違うだけだ」という結論は説得力がある。2016年の「ハートネットTV」から。

それはいわば四本脚の椅子と三本脚の椅子の違いのようなものです。もともと脚が四本ある椅子から一本を取ってしまったら、その椅子は傾いてしまいます。でも、そもそも三本の脚で立っている椅子もある。

伊藤は大学の授業でも、「ボックスティッシュを否定せよ」というような課題を提示する。美術は否定から。一番遠い状態にする。想像の反対側にある既成概念を壊す授業だ。「最終的にできたものが最初の想像とだいぶ変わっている方が成功です」。見えている方がうまく言えない。いざ説明しようとすると、何も言葉が出てこない。見えているからこそ、見えていないことがある。見えてると捨てちゃってる情報がいっぱいある。

五感のうち8割9割が視覚だ、と。視覚障害の人は聴覚や触覚を頼りにするが、中には「自分の感覚は使わないで、どんどん人に聞いちゃう」という人もいる、と。伝えるのではなく、伝わっていく。それが居心地が良い。感覚が違うだけで、人と人との関係だったり、コミュニケーションが変わる。

視覚のない国があったら、「身の回りのもの」という概念も消える、と伊藤。共有物が増え、シェアしようという考えに変わってくる。所有の概念も変わってくる、と。喬太郎が「見えるから死角がある。見えるから盲点があるのですね」と言って、「豊かになった」とつぶやいたのが印象的だった。