【止まらない男 噺家・柳家小三治】自分をいかにそのまま素直に仕事に表せるかが芸。だけど、うまく見せてやろうとしちゃう。

NHK―BS1の録画で「ザ・ヒューマン 止まらない男 噺家・柳家小三治」を観ました。(2021・03・09)

小三治師匠を描いたドキュメンタリーの中でも秀逸な作品ではなかったろうか。ディレクターと師匠の距離感が絶妙で、「小三治が今、何を考えているのか」をその場、その場で上手に引き出す能力に長けたディレクターだと思った。「コロナの冬を追った」と冒頭のナレーションにあったように、「噺家」が喋ることを止められてしまって、そしてまた再び高座に上がることの難しさと、そして素晴らしさの両面が浮き上がっていたように思う。

小三治師匠の最初に出てきた短いインタビューに痺れた。

こういう時代のこういう時に、俺は一体何をどうやるんだろうって、とても興味がある。やるよ、俺。

60年以上、噺家を続けてきて、こんなにも高座から遠ざかることはなかった。マネージャーが「いつも休みたい、休みたいと言っていた人が、高座に上がりたくてしょうがなくなった」と言っていたように、柳家小三治という人は本当に心底「噺家」なのだと思った。

できんのかな、と思っちゃう。ずっとやってないだろう?いつもだったら、しょっちゅうやっているからさ、そんな心配はしなんだけど。

師匠の「噺家」としての矜持がそこにある。

お金取って聞かせるんだろう、申し訳ないよ。それだけの値打ちが果たしてどれほど自分にあるだろうと思うね。“そんなこと言ってる場合かよ、そんな芸で”って、いつも自分を責めるような自分になっちゃった。自分の中で自分と競争しているんだろうね。

ライバルは常に「柳家小三治」なのだ。

弟子の三三のインタビューが補足してくれた。

長いこと現場というか高座から離れていると多少なりとも不安はありますよね。この年齢だと余計に。それは大きいのかなと思って。高座に上がって喋るのは、噺家ひとりなんでね。そこから先はどうにもしょうがないことですから。

常に「噺家」として持っている了見は、図らずも長年行きつけの床屋のおかみさんに髪を切ってもらいながら喋った言葉に現れていた。

このおかみさんもね、どういう暮らしをしてきたか知らないけど、生きているうえで楽しいことつらいこと、たくさんあったんでしょう。だからそういうことがハサミ捌きっていうか、作品に反映して出来上がるんじゃない?ひとつの芸術だよね。

人をいかにそのまま素直に仕事に表せるかっていうのが芸かな。なかなかそういかねえんだ。なんとかうまく見せてやろうとか、そういうことを考えちゃうんだよ。そうするとあとで反省することも出てくる。じゃないかな?俺は思うんだけどね。自分がそうだから。

コロナ禍で制限があるなか、高座に上がる小三治師匠の思い。

こんな時でもわざわざ出て来ようというのは何かしなくちゃいられない心に人々がなっているとも言えるね。小さい自分がどれだけのものを皆さんにお返しできるか。

やっぱりお客さんがいなきゃ。いて、はじめて落語っていうか。何百年も続いてきた落語という芸があったんだよなということに、また改めて気がつきました。

お客さんに励まされ、お客さんの心をもらって、私の心を返して。きょうは面白かった。もう一遍やってって言われてもできない。落語って面白いよね。

そして、これからも噺家であり続ける意気込みを忘れていない師匠がいる。

歩みを止めてないなんて言うと格好いいけど、止まらねえんだよ。止まらない。ここで止められないよ。そういうわけにはいかないの、俺は。そうじゃないと嘘をついて生きているような気がする。

コロナ禍の中、小三治師匠の思いは一つだ。

今やれることをやっている。だけどやれることは何かというと、やりたいことをやろうとしているんでしょうね。ただ、生きているだけだよ。見てて分かったろ。

噺をすることは、生きること。そういう極致にまで達する仕事ができる人は数が限られているだろう。ただ、そういう極致に一歩でも近づきたいと思う。