古今亭文菊「庖丁」上手く演じないと嫌な噺を、独特の可笑しみを生かしてプラスに変換する話芸は絶品

国立演芸場で「花形演芸会」を観ました。(2021・03・06)

古今亭文菊師匠の「庖丁」が秀逸だった。久次が旧友の寅に頼んで、自分の留守に自分の女房を口説かせて、そこへ自分が「間男見つけた!」と乗り込んで、女房を田舎の芸者に売り払ってしまおうという魂胆はあまり気分が良くないから、上手く演じないと嫌な噺になってしまう。だが、文菊は寅のちょっと間抜けなキャラクターをデフォルメして、女房おあきにピシャリと叩かれるところの間の取り方も絶妙で、この噺のいやらしさ(マイナス)を文菊独特の可笑しみでプラスに変換し、逆に笑いを呼ぶ効果を出している。こりゃあ、いい「庖丁」だ。

久次は清元の師匠・おあきの亭主におさまって良い暮らしをしているのに、脇に若くていい女と出来て、おあきが邪魔だから一芝居打ってくれと鰻屋の二階で奢って、寅に頼む。おあきさんは三十三歳、まぐろで言えば中トロ、脂が乗っていいじゃないか、と寅は言うが、久次は欲張りだ。尚且つ、田舎の芸者に売り飛ばして、山分けしようなんて、とんでもない奴だ。

寅はお人好しのところがあるから、久次の策略に加担することになるが、結局は正直におあきさんに作戦の全貌を白状するから人間的で好感が持てる。だいたい、佃煮が鼠いらずの上から二段目にあって、おこうこが上げ板の三枚目の縁の下にあるなんてことは久次から聞いてなくちゃわからないはず。おあきさんのところに上がり込んで一杯やるときに、肴はなにもないと断られると、「出しましょう。面倒くさい」と自分から取り出してしまう素直さがいい。

おあきさんに対して、一杯いかがです?と誘うも、「不調法なんです」「一滴もやらない」と拒絶されたときの寅は、元々もてない性質だからへっちゃらだ。差しつ差されつ、は諦めて、一人寂しく手酌というのも慣れているのだろう。清元の師匠だから、三味線で喉を聞かせてという願いも、叶わないとなると口三味線で小唄を歌うところも可愛い。

八重一重。♪山もおぼろに薄化粧、娘盛りはよい桜花、嵐に散らで主さんに、逢うてなまなかあと悔やむ、恥ずかしいではないかいな~ フレーズの切れ目切れ目でおあきさんに近寄る寅さんが、ピシャ!と叩かれ、それでも懲りずに近寄るところは絶品だ。「女を口説く面じゃない。ダボハゼみたいな顔して」と言われ、ここからはもう、寅さんは本当のことを暴露するしかない。

「こうなったら、自棄だ!好きでやってんじゃない!てめえの亭主に頼まれたんだよ!」。これで、おあきさんも気が変わってくる。それは本当か、と確かめた後は、久次に言いたいことを言って突き返したい、ついてはお願いだから、私と一緒になってくれないかい?と寅さんに頼む。大逆転。寅も「嬉しい!」。汚い着物を脱がして、久次の綺麗な着物に着替えさせるおあき。お酌で仲直り、「実は奥に刺身があるんだよ!」。さっきまで間抜けだった寅の顔が相好を崩すのが愉しい。

そこへ踏み込んだ久次は逆に間抜けだ。「うまいことやっているな・・・いっそ、役者が引き立つというもの」と言って、乗り込み、「よくも間男しやがったな!」。おあきは「みんな、寅さんから聞いたよ。何、振り回しているの?その着物、脱いで、寅さんの着てた汚い着物に着替えなよ」。そして、「きょうからは、寅さんがうちの人。お前さんからも何か言ってやって」。そのときの寅の「そういうこと」の台詞に「話が違う…」。「そうなっちゃったんだから」と勝ち誇るわけでもなく、でも済まなそうというよりは嬉しそうな寅さんの表情が絶品であった。