玉川奈々福「飯岡助五郎の義侠」 まるで“天保水滸伝”の第一話のように、そのスピンオフは圧倒的な迫力で僕を引き込んだ。

木馬亭で「日本浪曲協会 3月定席」を観ました。(2021・03・04)

玉川奈々福さんが天保水滸伝のスピンオフで作った「飯岡助五郎の義侠」を聴いた。先月28日に渋谷ユーロライブで開催された「ぜーんぶ自作♡新作フェス!!#5 お家芸に新作を加える。風説天保水滸伝」に行くことができなかったので、木馬亭の定席で聴けたのは嬉しかった。

相州三浦の網元の倅で、身体が大きく、草相撲でならした助五郎は、房州の飯岡浜にやってきた。漁師たちの仲間入りの儀式で荒縄で身体をグルグル巻きにされた助五郎は海へ投げ込まれる。度胸試しという手荒な儀式だ。海面から浮かんでこない助五郎を皆が心配したが、なんともう一艘の船の上に現れ、皆は度肝を抜かれた。すごい奴がやってきた!

地元・銚子の貸元、木村五郎蔵に見込まれた助五郎は3年後に網元に、6年後に貸元に出世、さらに十手捕り縄もお上から託される顔に。網元と渡世人の二つの顔を持ち、男をあげ、飯岡浜にその人ありと言われるほど、貫禄をあげた。飯岡助五郎という名はそこからきているのだろう。

飯岡に来て23年、43歳のとき。天保6年、夏。飯岡浜に突風が襲った。竜巻だ。船8艘が沈み、漁師380人が海の藻屑となった。助五郎がここで漢気を出す。全ての財産を投げ打って、救済に走ったのだ。贔屓にしてくれていた質屋の彦兵衛のところに嘆願に行く。

道中差一振りを抵当に、2000両を貸してくれと頼み、彦兵衛は承諾。これを資本に人買いをする。故郷の三浦に行き、失った男手を募った。農家の次男、三男は食い扶持に困っていたから、400近い男手が集まった。2両の支度金に給金4両、それに女房と家がつくという好条件だから当然だ。彼らを飯岡に送りこんだ。夫を失った後家と所帯を持ち、働き手として奮闘した。苦しい一年だったが、翌夏には一艘の船が沖に出るまでになった。船の名前は「三浦丸」。

飯岡を災難から救った助五郎はさらに男をあげたわけだ。祝いの賭場では、千両の金が動いた。そこに笹川繁蔵が現れ、運命の歯車が新たに動き出す。因縁の物語「天保水滸伝」の幕が開いた。

伊藤桂一先生の原作はあるが、奈々福さんの創作力に舌を巻いた。そして、天保水滸伝外伝として、まるで古典浪曲のように違和感なく、いやむしろ圧倒的な話芸で惹き付ける浪曲がそこにあった。「飯岡助五郎の義侠」。いつか天保水滸伝という連続物の第一話として加わったとしても不思議ではない。