【追悼 鏡味仙三郎】「お待たせしました。寄席の吉右衛門です」きょうの寄席は楽しかったと言われるために。
太神楽の鏡味仙三郎師匠が1月30日に亡くなった。74歳だった。
仙三郎さんと言えば、「お待たせしました。寄席の吉右衛門です」と言って、ドラが袖から鳴り、ズッコケるのが定番で、その後に見せる絶品の土瓶芸で客席はいつも息を飲んで見守っていた思い出とともに寄席には欠かせない色物さんだった。
弟子の仙志郎、仙三(のちに仙成)と3人で仙三郎社中として活動する前は、兄弟弟子の仙之助さんとコンビで寄席に上がっていた。01年に仙之助さんが52歳の若さで亡くなった後、02年から仙三郎社中を結成した。仙之助さんとのコンビの高座も覚えているが、やはり仙三郎社中としての高座が鮮明に記憶に残っている。
本名・大木盛夫は昭和21年(1946年)に盛岡に生まれた。小学校入学前に祖父の住む上野桜木町の家に引越し。そのときに間借りしていた一家の子どもが自分より3歳年下の山原澄で、後にコンビを組む仙之助だったそうだ。仙三郎が太神楽の世界に入ったのは昭和30年、小学校3年生のときだった。12代目鏡味小仙に入門。その経緯が面白い。
師匠小仙は当時丸一小金親方とコンビを組んでいた。盛夫少年は寄席に入ったこともなかったし、小学校に通うときに小仙の家の前を通ってはいたが、そこに太神楽の師匠が住んでいることは全く知らなかった。ある日、同居していた澄くんがいないから、どこへ行ったのだろうと捜していた。すると、辿り着いたのが師匠の家で、太神楽の稽古をしていた。六歳の六月六日に芸事を始めると上達すると、澄くんは小仙師匠に入門していたのだった。
太神楽の稽古はまず撥からで、一方の端に赤い布が巻いてある木の撥を両手に一本ずつ持って、それを一回転させる。その基本が、澄少年の手つきがどうにもぎこちなく、「なぜできないのだろう」と内心イライラしながら見ていた。そうしたら、師匠が盛夫少年のところへ来て、「やってみるかい」と撥を貸してくれた。すると、すぐにできた。それが入門にきっかけとか。落語の「あくび指南」みたいだと、仙三郎さんは懐述している。
初高座は入門して1年半ほど経った昭和32年3月。「盛之助」という名前をもらって、小仙・小金コンビに混ぜてもらう形で池袋演芸場の高座へ。太神楽は実際に演じる太夫と、色々な道具を手渡したり、口上を述べたりする後見とに役割が分かれるが、この三人の場合は小仙親方と盛之助が太夫で、小金親方が後見だった。お客様の顔が見られないくらい緊張し、無我夢中で五階茶碗をやったそうだ。
仙之助・仙三郎コンビを結成したのは昭和48年(1973年)。太神楽の社中は三人が基本だが、今度は二人であがる。寄席の表に「仙之助・仙三郎」と看板が出たときは嬉しかったと。海老一染之助・染太郎が弟の染之助が芸をやっていたように、普通は太夫と後見に分かれるが、二人の技量が似通っていたので、その時々で太夫にも、後見にもなるというスタイルを取った。海老一に負けじと、何か独自性を出そうと「一つ毬」を売り物にしようと精進した。
また、これは仙之助しかできなかったのだが、頭の周りを毬がくるりと一回転する技があって、これを「木曜スペシャル」と名付けてやったら大受けした。最初はその日の曜日に合わせて「〇曜スペシャル」としていたのだが、川口浩の探検隊の人気テレビ番組にあやかって「木曜スペシャル」としたら反応が良かったので定着させたとか。
01年に仙之助さんが亡くなり、一番弟子で息子の仙一(のちの仙志郎)と組んで、翌年には二番弟子の仙三も加わり、「鏡味仙三郎社中」を名乗る。仙三が仙花と結婚して03年に独立すると、仙成が代わりに加わった。
仙三郎さんの功績は後進の育成という点も見逃せない。戦前は「大日本太神楽曲芸協会」には300人もの会員がいた。仙三郎さんが入門した昭和30年でも、100人。だが、その後は減る一方で、平成の世では一番少ないときで30人ほどになってしまった。そこで、国立劇場の養成科に陳情して、寄席囃子と同様に「寄席には欠かせない存在」と訴え、翁家和楽師匠とともに落語協会、落語芸術協会、日本演芸家連合などのバックアップをもらい、日本芸術文化振興会の研修制度が平成7年の秋からスタートしたのだ。
「寄席の吉右衛門」には逸話がある。相棒の仙之助さんが亡くなった1年後、あるお客様から「吉右衛門さんにそっくり」と言われた。当時、「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵役で大変な人気だったから、シャレのつもりで高座であのフレーズを言ってみたのだそうだ。06年に三語楼改メ六代目柳家小さん襲名パーティーの席に本家の吉右衛門さんがいらしたときに、小さん師匠に頼んで紹介してもらい、「寄席の吉右衛門を名乗っています」と告白したら、たった一言「ごもっともです」と言われたそう。以来、堂々と自信をもってキャッチフレーズが言えるようになったと。
最後に、仙三郎さんのお言葉を。
我々の寄席での役割は、次の出番の噺家さんが気持ちよく高座に上がれるよう、うまくバトンタッチする。これに尽きると思います。だから、お客様から「きょうの太神楽はよかった」と言われるよりも、「きょうの寄席は楽しかった」と言って頂く方が嬉しい。
仙三郎さん、ありがとうございました。ご冥福をお祈り申し上げます。