【柳家喬太郎みたか勉強会】「牡丹燈籠 お露新三郎」と「らくだ」。“勉強する”ことの本当の意味を全うする高座に聴き入る。

三鷹市芸術文化センター星のホールで「柳家喬太郎みたか勉強会」を観ました。(2021・02・06)

東京では原則として独演会はやらないという決断を喬太郎師匠がしてから、10数年になろうか。それまで独演会をおこなってきた星のホールの会は「みたか勉強会」と名前を改めて年2回開催されている。勉強会だから、口慣れた噺ではなく、蔵出し棚卸し的な、一度ネタおろししたのだが、その後滅多にかけていない噺をかけることが多く、師匠が「挑戦」する高座になっている。

この日の昼の部では「牡丹燈籠」から「お露新三郎」をかけた。この噺は他の会でも掛けないことはないのだが、この日は新三郎がいかにお露に恋い焦がれていたかにスポットを当てた特別な高座となった。新三郎とお露はお互いに惹かれあい、その純愛が叶わず、悲恋となるという意味では普段の「牡丹燈籠」と変わらない。しかし、普段は「お札はがし」が有名であるために、どうしてもお露の側から新三郎恋しさを描く場合が多く、極端な言い方をすればストーカー的に描かれていて、多くの演者はその色合いが強い。

だが、この日の高座は違った。幇間医者・山本志丈の引き合わせでお露と出会った日以来、お露に会いたい思いを募らせる萩原新三郎。伴蔵に頼んで釣り船を出してもらい、柳島の寮の裏の川からお露を遠く見つめる新三郎。ついには、裏手から忍び入り、お露と再会した喜びを分かち合い、やがて嬉しい仲になる新三郎。ほとんどは新三郎目線でお露への恋心を描いている。これは最近では聴いたことがない演出である。2011年に喬太郎師匠が本多劇場で4公演8高座で「牡丹燈籠」を通しで演じて以来ではないか。抜き読みが多いために、どうしても「釣り船」の部分がカットされてしまうことに起因すると思われるが、それだけの理由ではないような気がする。美女が美男を愛するという形の方が、後にお露が幽霊となって出たときに恨みつらみが強調しやすいからというのもあるのかもしれない。

家の中で本ばかり読んでいては気鬱になりますよ、亀戸の臥梁梅を観にいきましょう、という山本志丈の誘いに乗って暫くぶりに萩原新三郎は外に出かける。その足で山本の知り合いの家、すなわち、父・飯島平左衛門とうまくいかずに別宅に住まいをしている娘のお露と女中のお米のところへ。最初はお米のお酌で山本と新三郎は飲んでいて、お露は出てこない。彼女もまた気鬱で、人見知りゆえに隣の部屋との襖の隙間から恥ずかしそうに覗いている。それに気づいた山本は強くこちらにくるように勧め、お露のお酌で飲む。そのときから、新三郎はお露に一目惚れ、酔ったせいだけでなく、顔を赤らめる。そしてまた、お露も顔を赤らめ、一目惚れなのがわかる。一遍に相思相愛というやつだ。

気鬱で内気という性格が共通しているから惹かれ合ったというのもあるかもしれない。もちろん、美男美女ということもあるが、心を奪われるというのは、そういう単純なものではなく、通いあうものがあったに違いない。喬太郎師匠は流石だなあ、と思ったのは、普段だと新三郎がお手水に行ったときに手を洗う手ぬぐいをお露が差し出し、お互いの手が触れ合う場面を喬太郎師匠以外のほかの演者でも入れるのだが、今回は入れなかった。それはこのあとに新三郎が釣り船でやってくるまでに「会いたくてしかたない」という新三郎の気持ちを昂らせるためにあえて入れなかったような気がした。

お露に会った翌日から新三郎は別の意味で気鬱になった。お露殿に会いたい、だが、簡単にあの柳島の寮を訪ねたら、お露殿はどう思われるか。実にいじらしい悩みではないか。そんな新三郎を見て、世話をする伴蔵が心配をし、「遠くから眺めればいい」という言い訳を作って釣り船を出してもらう。釣りなんかには全く興味がないが、これなら辻褄が合うだろうという考えが恋する男のいじらしさである。結局は寮の裏手に舟をつけてもらい、自分は裏庭からお露さんに会いに行ってしまうのだが。

「お露新三郎」の真骨頂は“香箱”だろう。再会を果たした二人は、抱き合い、やがて嬉しい仲になる。そして、お露が持っていた香箱の蓋を新三郎に渡し、本体をお露が持ち、「二人は一心」という恋の証にするのだ。なんという、つつましい男女の恋であろう。結局はそれは新三郎が釣り船の上で見た夢ということになるのだが、しかし香箱の蓋は釣り船に残っていた。ここが「怪談」としての「牡丹燈籠」の魅力とでも言おうか。二人の相思相愛は「お札はがし」以前から強いものであり、お露同様、いや以上に新三郎が恋い焦がれていたというところにスポットを当てた喬太郎師匠の「お露新三郎」に魅せられた。

夜の部は「らくだ」を久しぶりにかけた。2013年5月、「扇辰・喬太郎の会」でネタおろしを聴いて、翌14年8月のこの「みたか勉強会」でかけたのを最後に僕は聴いていない。コロナ対策で20時までに終演しなければならないためだったからか、それとも屑屋の怒りを強調したかったからか、理由はわからないが、前半は簡略化した。丁の目の半次が屑屋に月番と大家のところに行ってこいと命じるところからはじまった。大家が断ったら、カンカンノウを踊らせるという脅しはなく行かせる。

案の定、屑屋が大家が酒と煮しめを断ったと伝えに帰ってきた。そこで初めて、じゃあという感じで、屑屋にらくだの死骸を背負わせ、大家のところで死人のカンカンノウを踊らせてみせる。

で、大家が届けてきた酒で清めの盃だ。一杯目、二杯目は息もつかずに一気にのんでしまって笊と秤を返せと言う屑屋に、半次は呆れる。が、三杯目からが違ってくる。そこまで半次に怯えていた屑屋の態度が変わってくる。「美味いですね」。半次が「屑屋風情が商いに行こうが行くまいが、どうってことないだろう」と口走った瞬間から、屑屋がカチン!とブチ切れる。屑屋風情、という言葉が気に障ったのだ。というより、そこが口火となって、半次と屑屋は立場が逆転する。

一文もなくてもこれだけの弔いをしてしまう半次は偉いかもしれないが、その一文や二文を稼ぐのにどれだけ俺たち屑屋は毎日苦労しているのか。博奕で金を動かしているだろう、ならず者のらくだや半次とは違って、こっちは汗水たらして細かい銭をコツコツと貯めて暮らしているのだという、心底からの憤りを感じた。生前のらくだの悪行ぶりを「左甚五郎の蛙」の一件を含め、本当に怒りをあらわにしながら半次に怒鳴る姿に、真面目に働く一町人の思いが表われていた。

四杯目、五杯目からは屑屋が要求し、さらには一升瓶ごと奪い取って、ラッパ飲みする酒癖の悪さはすごい。半次が圧されて、「商いに行かないのですか?」と尋ねると、「商売にちょっとくらい行かないで暮らし向きが傾く屑屋じゃねえ!」と、さっきの貧乏人の了見とは裏腹なことを言うのがまた屑屋の魅力のような気がした。

すっかりおとなしくなった半次と血気盛んな屑屋という構図の面白さに重点を置いた「らくだ」。最後は、らくだの髪を剃る剃刀を借りて来い!と半次に命じて、「貸すの貸さないの言ったら、カンカンノウだ!」でサゲ。コロナ時短バージョンゆえの演出かもしれないが、丁の目の半次をおとなしくさせてしまう屑屋の酔いっぷりが実に見事な高座だった。