宝井琴桜「無欲の出世」一所懸命に身分相応の暮らしをして、身の丈にあった幸せを喜ぶ。この積み重ねが生きるということ。

上野広小路亭で「講談協会定席」を観ました。(2021・01・28)

宝井琴桜先生の「無欲の出世」に聴き入った。世間や組織をスイスイと器用に渡り歩いて出世する人間をよく目にするが、僕はそういう人が好きではない。昨日のブログにも書いた「一刻者」が好きである。金や人をうまく動かすことができなくても、自分の信念を貫けば道は開ける。志には志を、というのはこの読み物にも通じるような気がする。「よもすがら検校」を読んだ琴梅先生と、この「無欲の出世」を読んだ琴桜先生が夫婦というのは偶然だろうか。

貧乏侍の井上半次郎の心持ちがまず好きだ。蔵前の大通りで出会った小僧が、巾着切りに遭ったと聞いて、その金額1両2分を名前も名乗らずに、ポン!と渡してしまう親切心。自分だって、正月を親子4人できちんと迎えられるように2両用立てたくらいの貧乏暮らしなのに、居ても立っても居られなかったのだろう。帰宅して、事情を女房に話すと、女房も心得ていて、「困っている人を助けたのなら、良いことをした」と、寧ろ亭主を褒めている。夫婦そろって一刻者だ。気持ちがいいではないか。

そして、富くじである。小僧に1両2分を渡したら2分しか残っていないはずだ。それなのに、勢いで湯島天神で富くじを買ってしまう。貧すれば鈍する。当たるわけがない…、ところがこれが千両当たってしまう。松の千六百四十八番。これでようやく我が家に春が訪れた!と小躍りしてしまうのが凡人だが、半次郎夫婦は違う。千両なんて身分不相応な額だ。贅沢暮らしをしたら、子供たちの躾にもよくない。女房は「その富札、お棄てください」と言い、半次郎も「お前の言う通りだ。こんなものは関わりがない」と答え、行燈の火で富札を燃やしてしまう。すごい。とても出来ることではない。それで、徹夜で内職をして金をこしらえ、2人の子に晴れ着を着させて正月を迎えるという了見に畏れ入る。

そういう人物には神様がついているのだね。正月8日。半次郎は組頭の大久保左門に呼び出される。湯島天神の一番富の当選者が未だに名乗り出てこないと、世間で噂になっている。同心御用聞きの三次が言うには、「お前さんの家から、当たった!という声が聞こえてきた」と言う。それが上司の同心、町奉行、寺社奉行、そして組頭の俺まで伝わった。そして、さらに老中にまで伝わっているという。半次郎は嘘はつけない。認める。そういう無欲の者が無役では勿体ないと、半次郎は御小人目付80石になり、さらに出世して、200石取りの吟味与力にまで出世した。そうだよ、そういう人物を登用しなくては。自分本位のガリガリ亡者になんか出世させたくないよね。

で、17年後だ。半次郎は道で小僧を連れた商人風の男に声を掛けられる。「蔵前大通りで私に1両2分を渡してくれた覚えはありませんか?」。そうだ。この男こそ、巾着切りに遭って困っていた小僧の17年後である。訊けば、3年前に近江屋幸次郎という名で駒形に店を持ったという。「あなたのことは片時も忘れたことはありません」。そりゃあ、そうだろう。命の恩人だ。身投げまで考えていたのだから。これが縁で、半次郎の娘の千代が近江屋に嫁入り。千代は厳しく育てられた娘だから間違いなく、夫となった幸次郎を支えるに違いない。のちに半次郎は500石の武士にまで出世したという。

意欲をもって日々を暮らすことは大切だ。だが、欲が先行した「意欲」じゃいけない。意、すなわち意思、言い換えれば志だろうか。その意が先行した「意欲」を持って生きていきたいと思う。