【落語ディーパー】を観た(4)志ん生スペシャル「風呂敷」「火焔太鼓」

NHK-Eテレの録画で「落語ディーパー!」を観ました。

若い世代が落語を知らないなんてもったいない!落語に魅せられた東出昌大が春風亭一之輔たち落語家と、毎回ひとつの演目をとりあげ、深~く語り合う番組。今回は2019年3月25日・26日に放送された「志ん生スペシャル」(孫弟子の古今亭菊之丞師匠がゲスト)を観て、知ったこと、感じたこと、学んだことを記したい。

「風呂敷」(2019年3月25日放送)

志ん生の高座で映像で残っているのは1955年の「風呂敷」「巌流島」、61年の「おかめ団子」、それに巨人軍優勝祝賀会で倒れたあと復帰した64年「鰍沢」しかない。その中では一番、志ん生らしさが出ているのは「風呂敷」だろう。ミスター落語。放蕩無頼、破天荒。超えられない存在。偉大なのに、酔ったらグズグズ。長嶋茂雄のような別格で、レジェンド。モニャモニャ言っているのに味わい深い。スタジオ出演者は口を揃えてそう言った。

商品化されたLP、カセット、CD、DVDは151演目あり、発売されたCDは673枚、DVDは18枚。その中でもトップは「火焔太鼓」で53枚が出ている。その次に発売枚数が多いのが「風呂敷」で33枚(番組調べ)。

55年の「風呂敷」の映像が流され、東出さんは「落語を知らない人がこの映像を観たら、昭和の資料映像にしか見えないだろう。派手さはないし。だけど、落語ファンが観たら、どうしようもなく愛おしくなる」と。その魅力を言葉で説明しようとすると、魅力がなくなってしまう。志ん生が「どっちでもいいんだよ」と言いそうで、それが魅力なんだと東出さんが言うと、一之輔師匠が「相当こじらせてますねえ。扉を開いて、中に入っちゃうと堪らないんですよね」。

菊之丞師匠はこの噺を持っていないそうだ。「難しい」と。志ん生も「こんなに出来不出来がはげしい噺はない」と生前言っていたそうだ。一之輔師匠は習ったことはあるが、一回しか演ったことがない、一回演って「駄目だな」と思ったという。小痴楽さん、わさびさんは持っていて、「楽しく演ってます」。若手の噺家さんは臆せず、どんどんチャレンジしてほしいと僕は思う。

兄サンの説教の言葉遊び、「おんなさんがいにいえなし」を「女は三階に行っちゃいけない」というギャグでやると、真に受けちゃう人がいる世の中。「女三界に家なし」は、女性は子供の時は親に、結婚したら夫に、老後は子に従わなければいけない、生涯どこにも安住の場がないという意味が今の人にはわからない。でも、「いいかげんなことを言ってごまかしている」ということが通じれば、その噺を楽しめるわけで、そこに障害はないと思うのだけれど。

元々は「風呂敷の間男」という噺だった、昭和22年まであった姦通罪などの影響で「間男」の部分を排除した、と解説が入ったが、今も間男テーストで演じている噺家もいる。番組の中で紹介されていた談笑師匠の場合(2018年口演)は女房が何人もの男と間男している体で、相手が半さんなのに、途中で新さんになったりしていて面白い。また、菊之丞師匠の師匠・圓菊(2000年口演)も、新さんをお茶しないか、と誘うのではなく、おかみさんがチビチビお酒をやっていて、一緒に飲まないか?と誘っている。演者によって色っぽさが様々なのも面白い。

弟子の吉笑さんが「かなり、どぎついですよ、うちの師匠のは」と言っていた。いくら焼き餅でも、お茶を一緒に飲んだくらいで怒らないだろう。そこは艶噺として、赤塚不二夫タッチで描いていると。また、圓菊師匠も菊之丞師匠によれば、お茶のときもあったし、お酒のときもあった、お客で変えていたのではないかと。一之輔師匠いわく「(女房と新さんの関係が)なんでもないほうが愉しいよね」とも。

東出さんは噺の怒涛のラスト2分がすごい!と絶賛していた。仕方噺。酔っ払って帰ってきた亭主の頭に風呂敷をかぶせ、押し入れを開けて、新さんを逃がしてやるところ。手は使えないから、顔と目で表現をする。そこで状況を描けないと面白くない。一之輔師匠は「技量じゃないよね。内面。経験がそこに裏打ちされている」と言って、「もしもボックスがあったら、志ん生になりたい」とも(笑)。

「火焔太鼓」(2019年3月26日放送)

古今亭のお家芸。大事な噺。志ん朝に遠慮して、誰もできなかった噺。「志ん朝師匠が嫌がることはしたくない」と皆が思っていたし、志ん朝自身も「これはオヤジの噺だから勘弁してくれ」と言っていた噺。まさに特別な噺なのだ。菊之丞師匠も古今亭に憧れて入門し、「いつかは『火焔太鼓』を」という思いはあったが、「圓菊師匠が死ぬまではあまり演らなかった」と。

甚兵衛夫婦のグズグズの会話が愛おしい、と東出さん。汚い太鼓が高く売れました、じゃぁ、つまらない。それにどんどんギャグを放り込んで志ん生が面白くした噺。1956年の口演での、夫婦のやりとりを流したが、箪笥の件の「この店に6年もあるんですから」「この引き出しが開くようならとっくに売れている」「こないだ、無理に開けようとして腕をくじいた人がいる」はいつ聴いても面白い。女房の「だからお前さんは人間があんにゃもんにゃなんだよ」は最高。一之輔師匠は「音の面白さ。テンポの良さ」と指摘していたが、オリジナルギャグがポンポン出てくるところに、この噺の面白さがあるのだろう。菊之丞師匠は圓菊師匠に二ツ目のときに教わったが、そのときに「この噺は『鮑のし』みたいなもの。簡単な噺だから」と言われたという。だけど、高座にかけると受けない。簡単なはずなのに難しい。

番組では初代三遊亭遊三(1907年口演)と志ん生(1961年口演)を比較した。小僧が太鼓を叩くシーンは文字数が志ん生は遊三の1.8倍。ほこりとったら太鼓がなくなっちまうよ、のギャグが入っている。また、冒頭部分は志ん生は遊三のなんと11.8倍。うちの店に6年もあるんですから。開くくらいなら、とうに売れちゃう。腕くじいちゃった人が。腕をもむ人をかかえとけば。火鉢と甚兵衛さんを一緒に買ったみたいだ。胃が丈夫になっちゃたい。

これらの夫婦のやりとりは志ん生の家で普段からあったものをお手本にしたのではないかと仮説を立てている。女房だった、りんさんとの会話。つれ同士がぱあぱあ言っている、理想的な夫婦。女性を演じる工夫も大事と菊之丞師匠はいう。「八人芸」と言って、声色を変えるのは駄目。声を変えないで、男女が分かるようにしなきゃいけないと。

志ん生の魅力を検証するために、番組では1958年と56年の口演を書き出し、毎回違う口演になっていると示した。

(1958年)はあ嫌な女だね、ありゃね。あれは俺のカカアかい。ありゃやんなっちゃうな本当に。ああいうのは生涯ずうずうしいから家にいるよ。あんにゃもんにゃめ。ナメてやんだな亭主を。夫をなんだと思ってやがんだ。今度ちょっと脅かしつけてやんなくっちゃ。おう、てめえばかりが女じゃねえんだよ。どこへでも行ってくんな。うらのドブじゃねえが、後がつかえてるんだ。本当に。なにが、こん畜生め。ナメやがって。そういうこと言ったら踏み倒しちゃうぞ。

(1956年)うるせえカカアだね、あいつはね。くう、あんな女ねえね。あれはなあ、どうも情けないよ。ああいうのはずうずうしいから生涯家にいるよ。こん畜生、本当に亭主をナメてやがんだあ。お前さんは頭が働かなねえとか、なんとかかんとかっていいやがんだ。なにを言ってやんでぇってんだ。本当に。嫌ならどこへでも行きやがれってんだい。なんだい。女なんかすぐに世間にいくらでもいるんだ。本当にふざけやがって、ええ、まごまごしてるてぇと本当にたたき出すぞ。

台詞も違うが、台詞の前後の間も違う。志ん生のスタジオ録音は案外つまらない、と菊之丞師匠。お客さんがいると違ってくる。お客さんの笑いで「乗っているな」というのがわかると一之輔師匠。「いいんだよ、なんだって」という志ん生の言葉には、筋がよっぽど肚に入っているからできることだということと解釈できる。

志ん生が志ん朝に言った言葉が印象的だった。「芸が面白いと、客がウーンと近づいてくる。そこに、ポン!とぶつけるんだ。お前はその境地に達していない。そうなってからが愉しいぞ」。志ん生は噺家にとって化け物である。