【落語ディーパー】を観た(3)「粗忽長屋」「居残り佐平次」「長屋の花見」

NHK-Eテレの録画で「落語ディーパー!」を観ました。

「粗忽長屋」(18年9月17日放送)

番組では「自分の死を信じるあわてん坊」「バカをいっぱい繰り返す」「超シュールな展開」「疑問が爆笑に変わる」など色々なテロップが出ていたが、単純にこの噺の面白さを説明することが難しい噺だ。

一之輔師匠も「一人の話芸だから出来る、映画やドラマにはできない、聴き手それぞれに想像して作ってもらう噺」だと言っていた。粗忽モノの落語は沢山あるが、(一之輔師匠は「粗忽の釘」を得意としている)その中で突出している噺だとも。八五郎はがマメでそそっかしい、熊五郎が不精でそそっかしい、とよく言われるがそれで果たして納得がいくか?という問題がある。

先代小さんの88年、77歳のときの口演が流れた。「とにかく、ここに行き倒れの当人を連れてきましょう」「今朝もお参りに誘ったら、気分が悪いからやめると言っていました」「こんなことになっちまったことを今朝になっても気づかない野郎なんです」「当人を連れてくれば安心して渡してくれるでしょ」。高座はまさに王道で、リアリティーがあり、しかも重厚感がある。自然に聴き手に入ってくる。過剰な演技がなく無理をしていない。泰然としている。これがスタジオの反応だ。

人間性が芸に出ている、というのはこういうことなのか。生前よく、「らしく、ぶらず」と小さん師匠は言っていたが、まさに自然体。「肚から出ているか、上っ面か」という言葉にも置き換えられる、と。

柳家の芸風は滑稽噺、特に長屋モノを得意とする。派手さがないが、自然と出てくる可笑しみがある。それは無駄を省いて噺をこしらえているからだと。笑わせようとして演らない。笑わせようと思ったらお客さんは笑わない、というのはコメディでもそうだと東出さん。

小痴楽さんは自分が演るときは逆に「粗忽を出しまくる、押せ押せでいく」と。「笑わせる!」という思いで高座を務める、と。これがあざとくなっちゃうと駄目なので、そこの駆け引きが難しいとも。若い小痴楽さんはその芸風の方が面白いと思う。

一之輔師匠も「持ってはいるが、他の粗忽モノと比べるとまだまだだなと思う。壁は高い」、でも「小さんを目標にしちゃうと、それは違うだろう。こわい噺だ」とコメントしていた。

再び先代小さん師の口演が流れる。「お前は昨夜浅草で死んでるよ」「死んだような心持ちがしない」「それが図々しい。迷っちゃダメだ。昨夜、何していた?」「観音様の脇までは覚えている」「それが何よりの証拠だ。死んだの気づかずに帰ってきたろ」。吉笑さんいわく「黒目が大きい」、それは「目に意思がない」ことにつながるのでは、と。一之輔師匠が「シベリアンハスキーの目だ」。

そして、サゲに真骨頂があると番組は指摘。「抱かれている俺は確かに俺だが、抱いてる俺は誰だろう」。シュールな名文句。東出さんが「ニーチェみたい」。「存在とは?」を問いかける哲学的な台詞だと。小痴楽さんも、「演っていても、聴いていてもスカッとする」サゲだと。

で、現役二人の口演が「自由なアレンジ」という観点から流された。談笑師匠、08年の口演(「粗忽だらけ長屋」)は、長屋の住人が沢山、「死んだ」熊のところに押しかけ、「死んだんだって?」と挨拶にくる。まさにタイトル通り、粗忽だらけ、である。

たい平師匠、07年の口演はラストが葬式になっている。弔問にやってきた鳶頭が死体を見て「これはお前じゃない!竹の野郎だ。今朝、会ったばかりだ」と言い出し、信じない連中に向かって「じゃあ、当人を連れてくる」。

一之輔師匠が「小さんの粗忽長屋」がドーンとあるから、その通りできない、だから手を入れて自分の色を出そうとする噺家が出てくるのではないかと締めた。

「居残り佐平次」(18年9月24日放送)

悪でも憎めない男。無銭飲食なのに落語になると痛快と東出さん。口が達者、弁が立つ、調子がいい佐平次は、勘定を取りにきた若い衆を煙に巻いてしまう。佐平次の持つキャラクターに引っ張られてしまう、と一之輔師匠。

志ん朝、87年の口演から勘定をかわす場面。「お勘定、お勘定って、遊んでいるのに、しらけるよ。プツンと糸が切れてしまう。ほかの店に行って遊ぼうかな、となっちゃう。そうしたら、お前さんだって、気分が悪いだろう。そういう当てつけがましいことはしたくない」。騙されているのに、春風にあおられるかのような心地よさがある。志ん朝は男にもてるタイプの人柄だったが、佐平次もそうではないか、と。

ちなみにディレクターが台詞の文字数を数えたら、2万字あり、そのうちの1万2千字が佐平次だったそうだ。人名がタイトルになっているくらいに強烈なキャラクターとも。で、「佐平次」とは浄瑠璃の世界で「おべんちゃら」「でしゃばり」のことを言う符丁だったそう。

で、志ん朝、圓楽、談志。番組では「花魁が現れず不満を爆発させている客 そこに佐平次が現れて」という場面をそれぞれの高座で比較して聴いた。

志ん朝(87年)お一人で寂しゅうございましょう。ご立腹はごもっとも。霞さんのイイヒトの勝っつぁんでしょう?若い衆のようなものです。この店で霞さんとあなたのことを知らない人はいない。

圓楽(82年)紅梅さんのとこの克っつぁんでしょう?松岡克由。かっちゃん、数の子、ニシンの子!花魁が大変なんですよ。ちょいと、ウチの克っつぁんはこうなのよ。ウチの克っつぁん、ウチカッツァンということについては、私はどうも弱っているん。

談志(79年)紅梅の勝っつぁんでしょう?勝次郎。ヨ!ハ!すごい!うかがってますよ。何かというと、ウチカッツァン。天気がいいと、ウチカッツァン。雨が降ると、ウチカッツァン。弱っちゃう。ひとつ、盃を頂戴したい。

それぞれにタイプが違うのがよくわかる。スーッと懐に入る志ん朝。胸ぐらを掴んで奪う談志。圓楽と談志は自分から酒をねだるが、志ん朝の場合は客から勧めている。面白い。

ここで、サゲが残念ポイントだと東出さんは言う。「どこまでおこわにかけるんだ」「旦那の頭がごま塩ですから」。最初はわからなかったと。一之輔師匠はこの型でやっている。学生時代、「中村仲蔵」のサゲで、煙草入れをご褒美として貰い、「何だか嬉しくて煙に巻かれたようだ」「貰ったのが煙草入れだから」というのがあって、それを応用して、「居残り」のサゲにしていたそうだ。若い衆が佐平次から駄賃をもらう。「煙草銭をもらいました」「煙草だけに煙に巻かれた」。

だが、それは業界用語で「つかみこみ」と言って、プロではやってはいけないこととされている。あくまで落研のアマチュアだから許されたことと断って、今は本来の型でやっているとか。

番組では「おこわにかける=騙す」と「ごま塩ですから」が結びつかず、サゲとして決まらないと進行していた。おこわ、強飯は赤飯などで今でも日本人の生活にあり、そこにごま塩をかけるくらいはわかるから成立すると僕は思う。むしろ、問題は「おこわにかける=騙す」という言葉が子供の頃、わからなかった。そちらの方が問題ではないかと僕は思う。それで、小三治師匠や談志師匠はサゲを変えて工夫をしたと認識している。

「長屋の花見」(19年3月4日放送)

番組ではこの噺こそ「THE落語」だとした。貧乏長屋の住人がワチャワチャと愉しい噺。花見に関する噺は「花見の仇討」「愛宕山」「百年目」「花見酒」…と色々あるが、春になると寄席でたくさんかかるという意味で「THE落語」なのだろう。

上野に花見に行くのは、江戸時代は禁じられていた。将軍家が葬らている寛永寺があるというのが理由で、飛鳥山に行った。だから、飛鳥山に行くのは江戸が舞台。上野の山に行くのは明治以降。これは知らなかった。

この噺も先代小さんも十八番。三代目蝶花楼馬楽から四代目小さんに伝わり五代目へ。まさに理想形で、教科書だと。派手さはないが、長屋の空気が出ている。先代小さんの映像が流れ、一之輔師匠が「今だったら、パワハラだよね」。大家さんがお酒ならぬオチャケで、店子に「酔っ払え!」と強要するんだから。

でも、その店子も大家の洒落にとことん付き合うのが、この噺のいいところ。「ワイワイガヤガヤの噺」と呼んで、他にも「黄金の大黒」「寄合酒」「饅頭怖い」などがあるとした。①一人で何人も演じる②旬を扱う③飲み食いの仕草がある、こういう意味で「THE落語」なのだと。さらに寄席らしい噺だとも。

大根を蒲鉾と思って食べる店子、それは吉笑さんが言うように「気で気を養う」江戸っ子の心意気。それをまた、観客はなにもない仕草で想像して楽しむ。だからこそ、「これぞ、落語!」と言えるのだろう。

ヘエー、と思ったのは、意外と二ツ目は持っていないネタだそうだ。真打になって演っていいネタ。というのも、寄席の流れの中で、ある程度客席が温まって、そこでドーンと笑わせるネタだという不文律があるそうだ。おいしいネタは後から出る師匠に取っておいて、遠慮するということらしい。これは興味深かった。

この噺のルーツは上方落語の「貧乏花見」。東出さんは六代目松鶴の口演が好きだと言って、流れた(72年)。これぞ、上方落語!という高座。江戸落語と決定的に違うのは、大家に強制されて花見に行くのではなく、店子連中が自主的に発案して花見へ行く点だ。一之輔師匠いわく、江戸は武家文化が発達していたのに対し、上方は町人文化が発達していたからだろう、と。金がないのに楽しもう、貧乏を楽しもうとしている町人が見えた。