【正太郎百貨店 歳末感謝祭】師匠・正朝が真打昇進披露の口上に並んでくれることの幸せを感じながら迎える、正太郎の2021年。
内幸町ホールで「正太郎百貨店 歳末感謝祭」(第1部)を観ました。(2020・12・20)
3年前から正太郎さんは12月に赤坂会館で5夜連続の「正太郎百貨店」を開いてきた。毎日、大先輩をゲストに迎えて芸談を伺うのが楽しみだと正太郎さんは言っていて、今年は真打昇進を来年に控えて、最終回となるはずであった。ラストを師匠・正朝で締めくくるというのは、この企画をスタートさせたときから決めていたそうだが、まさか5夜連続は叶わないことになるとは思わなかった。1日で昼夜公演、会場も内幸町ホールに変えての開催、昼は正朝師匠、夜は柳枝襲名に多大な尽力をしていただいた市馬会長をゲストに迎えることとなった。
僕自身、正太郎さんが入門する前から、正朝師匠と古今亭右朝師匠との二人会「二朝会」に通っていたこともあり、好きな師匠であったし、九代目柳枝襲名には市馬会長だけでなく、正朝師匠も東奔西走したと伺っているので、落語だけでなく、是非、正朝・正太郎の組み合わせの対談を伺いたいと思っていたので、おっとり刀で駆け付けた。
「尻餅」正太郎/「普段の袴」正朝/中入り/対談/「大工調べ」正太郎
正朝師匠は山口県防府の出身。高校卒業して、明治学院大学に入学して上京した。小学校低学年くらいまでは、お金持ちの家にしかテレビがなく、ラジオを茶の間で両親と聴いていた。「一丁目一番地」「笛吹童子」などが記憶にあるとか。小学校4年くらいで、テレビが我が家にきて、当時は演芸番組をたくさん放送していた。先代小さん「強情灸」と志ん朝「時そば」が印象に残っていて、覚えて、炬燵の上に座布団を敷いて、お客さんが来ると、その一部をやってみせたとか。それが落語との出会いかなあ、と。
中学は野球、高校はサッカーに明け暮れる。一浪して大学に入学して、落語研究会に入った。もし、現役で入学していたら、サッカー部に入ったかも。でも、一浪して体力が落ちたんで、サッカーはつらいから、落語を選んで、女の子とお茶らける道を選んだんだって。明治学院大学落語研究会は、権太楼師匠が一期生。正朝師匠は7期に当たり、よく前座時代の権太楼師匠、当時、ほたるという名前だったけど、落語指導に来ていた。
大学4年生のとき、本気で噺家になりたいと決断。権太楼師匠に相談した。「よしな。売れているのは一握り。食えないよ」。それでも、覚悟があると言うと、「誰の弟子になりたいの?」と訊かれた。志ん朝、談志、圓窓の名前を挙げた。「皆、厳しいからやめた方がいい。柳朝さんはどう?」と逆に訊かれた。恐いイメージがあった。ハリウッド映画にも出るスターだったが、どこかファッションもヤクザっぽくて、そういうイメージがあったからだ。だけど、権太楼師匠いわく、「あんなに優しい人いないよ」。
実際、小朝を猫可愛がりしている。内弟子どころか、通いをしなくていいという主義。掃除や洗濯をして名人になれるわけない、時間があったら稽古しろという考え方だった。それがあって、正太郎には逆に「毎日来い」という育て方をしたとか。
昭和50年の入門で、55年に二ツ目。60年に真打。師匠・柳朝は昭和57年の暮れに倒れ、寝たきりになってしまったから、真打の口上に並ぶことが叶わなかった。親代わりに、金馬師匠と馬風師匠がなってくれた。寝たきりの柳朝師匠に報告し、「おめでとう」と言ってもらった。
正太郎は師匠・正朝が元気で真打昇進、九代目柳枝襲名興行の口上に並んでもらえる。こんな幸せなことはないのだなあ、と正朝師匠のお話を聞いて思った。