柳家さん喬「福禄寿」 一升の袋には一升の米しか入らない。欲張って大きな袋を持つな。コツコツと積み重ねる大切さを教えてくれた。

国立演芸場で「国立名人会」を観ました。(2020・12・19)

「福禄寿」を久々に聴いた。調べたら、2013年の「さん喬十八番集成」以来。その前は11年の三鷹星のホールでの「柳家さん喬独演会」。つまりは、このネタはこの10年、さん喬師匠でしか聴いたことがない。三遊亭圓朝作品とされている。心に沁みる名品だ。さん喬師匠は本当の「幸せ」とは何か、蓄えができることでもない、寿命が長くなることでもない、天から授かるものだと振って、この噺に入った。

福徳屋萬衛門の13人の子どもの中の、長男・禄太郎と次男・福次郎の対照的な人間を描いている。萬衛門夫婦の間に生まれた禄太郎は、店から資金を調達して事業を何度も興すが失敗続き。一方、貰いっ子の福次郎は家督を継ぎ、的確な裁量で店を繁盛させる親孝行者だ。母親が言うに、「禄は事業を大きくしようと欲を張るから失敗する。すこしうまくいくと、派手に使ってしまうから長続きしない」。これが「一升の袋には一升の米しか入らない」という、この噺全体のメッセージになっている。そこに、二升、三升入れようとするから良くない。

福徳屋恒例の「年忘れの会」に、禄太郎は出す顔がない。会が一段落すると、福次郎は母親の健康を気遣って離れの隠居所に送る。福次郎が去ると、そこに現れたが禄太郎だ。300円の無心に来た。母は断る。先日、800円も借りたのに散財してしまった。いや、今度は絶対に儲かる話なんだ、仙台の土地を買うと、必ずや2倍、3倍になるチャンスなんだと禄太郎は言う。当然、母はいつものことと、信じない。当然だ。

福次郎が再び、離れに現れた。母は禄太郎を炬燵に潜り込ませて隠す。福次郎は「伊豆善」の酒と誂えの料理と300円を持ってきた。「どなたかが来たときにふるまってください」。きっと、福次郎は禄太郎のことを察していたのだろう。なんて出来た孝行息子、兄思いなのだろう。これから「田中」である寄合に行ってくるという。外は雪。仕事熱心な男である。

一方、禄太郎は福次郎がいなくなると、炬燵から出てくる。母も実の子が可愛い。その300円をそっくり、渡す。そして、言う。「お前は足を引きずる癖がある。雪道を転ばないように」。傘を差して表へ出る禄太郎。だが、案の定、福徳屋を出た矢先に雪道に転んだ。そのときに、300円の包みを落としてしまう。

福次郎が寄合からの帰り道、自宅の前で下駄の歯にひっかかるものがある。見ると、300円の包みだ。さっき、母親に渡した300円だ。何か、母にあったのか、心配になり、離れに駆けつける。きっと禄太郎が落としたのだろう、と母。そして嘆き悲しむ。「運の無い子だ。自分の身の丈がわからない。一升袋には一升の米しか入らない。そこへ二升も三升も入れようとする。大きな袋を持とうとする。それがいけない。100円あったら、100円の暮らしをすればいいのに。それ以上の暮らしをしようとする」。福次郎は「お兄様は、いま、さぞ辛かろうと思います」。

禄太郎は懐に300円の包みがないことに気づき、再び、母親のいる離れを訪れようとしたが、福次郎と母の話を聞いて、さすがに心を改めた。「一升袋には一升しか入らないか。そうだよな。俺は大きな袋を持つことばかり考えていた」。

母親にこれまでの不孝を詫び、「おっかさんが喜ぶような人間になります」と言って、300円のうちから10円だけ借りて、旅に出た。福島の山を開墾し、さらに北海道へ出て、開拓をし、亀田村を興したとそうな。

自分の器量を知り、その器量の分だけ頑張る。すると、自分の器量は少し大きくなり、その分だけ大きな仕事ができるようになる。それを地道に積み上げることで、人間は大きく成長する。大きなことは望まず、コツコツと一所懸命、信念をもって取り組む大切さを、この噺は教えてくれた。