桃月庵白酒「富久」 洒脱な噺運びの中に“人間くさい久蔵”の喜怒哀楽が描かれている

日本橋公会堂で「白酒スペシャル」を観ました。(2020・11・30)

このコロナ禍で、桃月庵白酒師匠の高座を拝聴する機会がめっきり減ってしまった。と思って、調べてみたら、6月に浅草演芸ホールの寄席興行が再開したときの昼主任を3回も観ているし、ホール落語は9月の伝承ホールでの夜長月の白酒噺からコンスタントに復活している。なぜ、そんな思い込みをしてしまったのか。配信での高座をほとんど拝聴しなかったからだろう。文蔵組で「お見立て」、鈴本チャンネルで「松曳き」の計2席を聴いたのみだ。白酒師匠は高座ではおっしゃっていないが、きっと配信には消極的なお考えをお持ちなのだと思う。あの毒舌マクラは、配信では不可能で、やはりナマの高座で消えてしまうから良いのである。

「富久」が季節感があり、良かった。久蔵が火事見舞いで詫びが叶い、帳面付けを頼まれてからのところ。本家からお重とお酒を冷やと燗で一升ずつ届いたからの落ち着きのなさは真骨頂だろう。酒で旦那をしくじったのに、そしてそれがようやく許してもらえたのに、性懲りもなく酒が飲みたくなってしまうところに、「人間としての久蔵」が出ている。「ダメだよ。後にしなさい」と旦那が言うのに、「浅草三軒町から走ってきたんですよ。喉が渇いているんです」と、呑みたくてしょうがない。次から次へと火事見舞いの客が来て、応対しなきゃいけないのに、そっちのけになっている様子が何ともいえず好きだ。

もう一つ好きなのは、椙ノ森神社での富くじ抽選会場で、一番富が当たった久蔵の錯乱ぶり。タッタ!タッタ!と言って、その場に座り込んでしまう。で、社務所に行って、一番富の千両が当たったと駆け込むと、富札を売った古川の旦那と再会する。「よかったね」と当たったことを喜ぶ旦那が、札を出しておくてれと言うと、これがない。神棚に置いて願掛けしたまま、火事で焼けてしまったから、当然、久蔵の手元にはない。

富札がなければ、たとえ1両でも渡すことはできない。それを古川の旦那が説明するたびに、値切っていく久蔵が悲しいのだが、ここで社務所の富くじ関係者や古川の旦那に怒ったりすることはしない。「お前の家の玄関で首括って死んでやる」と捨て台詞をいう演出もあるが、白酒師匠はそういうことはしない。ただしょんぼりするだけである。それが次のハッピーエンドに繋がるのだから、僕も「つらく当たる久蔵にしない」演出に大賛成した。

「明烏」も久しぶりに聴いて嬉しかった。何より、冒頭の時次郎が帰ってきたとき。蝶々を追って隣町まで行ってしまい、迷子になったら、近所の8歳の坊やに家まで送り届けてもらったという段。時次郎は18歳。武士なら元服だ。父親は商売相手と上手にお付き合いするために、遊びも覚えた方がいい、吉原ぐらいは勝手に行っているくらいがいいと思うわけだが、それ以前の問題で、時次郎大人化計画は進むわけだ。童貞を失う前に、まず覚えておくことが沢山ある時次郎を心配する親父さんの気持ちがよくわかる。

本ばかり読んでいる時次郎が尊敬しているのは、二宮金次郎。僕の親父の小学校時代には修身の教科書に載っていたくらいだから、真面目一徹、努力の人だったのだろう。時次郎が「こういう人に学ばねば」というのもよくわかる。だけどねえ、女の子と遊んでいるお座敷で一人暗くなっている時次郎によって場は白け切る。おばさんに浦里花魁の部屋に放りこまれるときまで、「あなたたちはこんなことをしていていいのですか。二宮金次郎という人は!」を連呼するのは衝撃だよなあ。源兵衛は相方に二宮金次郎の伝記を渡され、「これを読んでいたら」と振られてしまったというが、さもありなん。

寄席芸人を自負する白酒師匠の高座は、コロナとかそんなものなど忘れて、寄席の空気を運んでくれる。力むことなく、軽~く、あくまでも洒脱に。それでいて、人間の喜怒哀楽がこめられている。大好きな噺家である。